EBM(Ethics-Based Medicine)」宣言!

─ では、臨床倫理学の方法論をどのように考えているか? ─

 

宮崎大学医学部 生命・医療倫理学分野 教授
【喫茶☆りんり】マスター 板井孝壱郎

 

最近、医療の世界では「EBM」という言葉が席巻しています。もはや「EBMでなければ医療ではない」とでも言う勢いです。EBM(Evidence-Based Medicine)とは、1991年にカナダ、マクマスター大学のG.H.Guyattが初めて使用し、その後、同大学のD.Sackett, P.Tugwellらを中心とするワーキング・グループによって概念の検討、整理が進められ、現在では個々の臨床医のあやふやな経験や直感に頼らず、科学的に実証された根拠(evidence)に基づいて、最適な治療法を選択、実践するための方法論だと言われています[1]

 

ところで、このEvidence-Based Medicineを「科学的根拠に基づく医療」と訳すと、狭い意味での医科学的な実証的データのみが重視され、バイオエシックスにおいて重要なファクターとされる「患者の価値観」等の、必ずしも実証的だとは言い難い観点が軽視されてしまうかもしれないという危惧を感じさせます。果たしてEBMが、「非人間的な冷たい医療」であるのかどうかは別としても、科学的なデータとしてエビデンスに反映されにくい患者のニーズや価値観という側面を、EBMはどのようにして臨床決断(clinical decision)に反映することができるのか、という問題は避けて通ることはできません。

 

いったいどのようにすれば患者の特性を見抜き、患者の価値観をも重視したEBM実践が可能となるというのでしょうか?

 

【喫茶☆りんり】では、もしもEBMが、個々の患者の価値観やニーズを重視しようとするのであれば、同じEBMはEBMでも、Ethics-Based Medicineでなければならない、と考えています。

 

臨床決断にとって重要なEthics-Based Medicineとは、「客観的な医学的データのみからでは、<いかに行為すべきか>という規範的な価値判断は導き出せない」というEvidence-Based Medicineの限界点を、むしろその出発点とします。もしもEBMが真に患者中心の医療を実現することを目指すのであれば、EBMは患者のニーズと価値観に基づき、その意向をどこまで実現することができるのかについて、ひとりの医師のみの価値観に基づいて判断するのではなく、行為誘導的ないくつかの規範的な原則を「導きの糸」とする実践的な価値判断の多角的分析の手法に基づいたEthics-Based Medicineでなければならないのではないか。【喫茶☆りんり】は、そう考えます。

 

 

誤解に基づくEBM信奉

 

 先述のようなEBMに対するさまざまな批判は、「ほとんどすべて誤解に基づくものであると言っても過言ではない」と、EBM推進派は述べています[2]。しかしながら、誤解に基づいてEBMに疑問を投げかける立場よりも、EBMを推進する立場にとっては、EBMを誤解し、まるでそれに盲従するような「EBM信奉者」の方が問題であるとも指摘しています。

 

代表的な誤解としては、「エビデンスさえあれば、良い診療が可能となる」とか、「EBMを行いさえすれば、良い医療が提供できる」という誤解が挙げられています。こうした妄信的な誤解に対しては、EBM推進派の立場からも「大規模臨床試験の結果を盲信して、個々の患者に適用するのは問題である」という批判[3]がなされており、あくまでも医師の専門性というものは、個々の患者の特性(医学的診断、健康状態や価値観・選好なども含めて)を見抜き、患者に合わせて適切にエビデンスを適用する能力であり、この能力がないと患者の価値観をも含めた本当のEBMは実践できないことが強調されてはいます[4]

 

ではしかし、いったいどのようにすれば患者の特性を見抜き、患者の価値観をも重視したEBM実践が可能となるのでしょうか?

 

 

EBMは数値化医療を促進し、「マニュアル医療」をもたらすか?

 

例えば、高脂血症に対しては、ここ数年で次々と大規模臨床比較試験が実施されてきており、米国コレステロール教育プログラム(NCEP)[5]をはじめ、エビデンスに基づくさまざまなガイドラインが存在しています。日本動脈硬化学会でも、「高脂血症診療ガイドライン」の中で、治療目標値を220mg/dlに定めています。これは、総コレステロール値が200mg/dlのときと比較した場合、冠動脈疾患の相対危険度が、220mg/dlで1.5倍、240mg/dlでは2倍になるというデータに基づいていると言われています[6]

 

 その一方で、日本人の虚血性心疾患の罹患率や高脂血症に対する薬物治療の有効性と有害性を比較した場合、有害性の方が上回る可能性があることを指摘するデータも存在するそうです[7]。それによりますと、心筋梗塞の罹患率が欧米と比べると5分の1以下であると言われる日本人の場合、「血清コレステロール値240mg/dlの高脂血症患者では、男性で376人、女性で1550人の患者を5年間治療して、虚血性心疾患の患者をようやく一人減少させることができるだけ」であり、また「スタチン系薬剤の投与により、年間1万人に一人重篤な副作用が発生するならば、血清コレステロール値が240mg/dl以上であっても、40歳未満の男性と50歳未満の女性の集団では、全体として薬剤の副作用が効果を上回ることになる」という考察を行っています。

このようにガイドラインの示す数値だけをみて治療を行うと、かえって患者に副作用のリスクを負わせることになるだけでなく、毎月外来に通院しなくてはならない交通費や仕事などの日常生活への影響といった、心理的・経済的負担を強いることにもなりかねません[8]

 

診療の対象となる患者の健康状態、治療によって生じる便益と損失とのバランス、患者と臨床医との関係、患者のニーズや価値観などのさまざまな視点なくしては、どんなに精緻なエビデンスに基づいたガイドラインであっても、それを正しく使うことはできません。

 

もしも、こうしたことに対する注意と配慮が欠落するならば、EBMはその本来の目標を見失い、「マニュアル医療」に陥ってしまうでしょう。

 

 

Ethics-Based MedicineとしてのEBM

 

EBM推進派の人々はほとんど皆、声をそろえて「EBMは、数値化による人間性喪失とはまったく逆の、個々の人間性を重視する」と述べています[9]。そして「検査や治療の方針決定の際には、客観的な臨床判断と豊富な臨床経験こそが全臨床医に求められる」とも強調してはいます。

 

しかし、これまで見てきたようにEBMが与えてくれるのは、あくまでも臨床決断のための判断材料のひとつにすぎないのであって、それを<どのように、いかにして>目の前の個性豊かな患者に適用するかまでは決して教えてはくれません。

 

EBMを提唱したマクマスター大学のG.H.Guyattは、いみじくも著書の中でEvidence never tells you what to doと述べています[10]EBMがわれわれに提示していることは、エビデンスがあってもなくても不確実なのだ、という「医療の不確実性」であるといえるでしょう。エビデンスがある場合には、多少その不確実性が少なくなるというだけであって、たとえエビデンスがあったとしても、どうすればよいのか、それだけでは決してわからないのです[11]

 

では、それが実際の臨床であるとするならば、最終的な臨床決断は、いったい何に基づいて、どのように下せばよいのでしょうか???

 

そのためにはまず、「豊富な臨床経験」が加わらないと、やはり客観的なデータだけでは患者の価値観やニーズを重視した臨床決断を下すことは不可能であることを、EBM推進派も認めています。けれどもこの「豊富な臨床経験」なるものは、従来の医療が根拠としていた<主観的な個々の医師の経験>ということと、どの点において、またどの程度違っていると言い得るのでしょうか。

 

もしも従来型の個人的な「経験」に依拠するのではなく、個々の患者の価値観やニーズを重視しようとするのであれば、EBMはEthics-Based Medicineでなければならないと【喫茶☆りんり】は考えます。

 

けれども、ここで言うethicsというものは、決して個々の医師の「高潔で有徳に溢れる人格性」のみを意味しているのではありません。もちろん医師という職業に求められる倫理性というものが、高潔なる人格性に支えられていることが望ましいことは言うまでもないことです。

 

しかし「優しさにあふれる医師」が、いつでも「正確無比な」臨床決断ができるとは限りません。むしろ、その<優しさ>ゆえに、「患者に良かれ」と思ってなす行為が、往々にして医師側の価値観のみに基づいたパターナリスティックな医療行為に結びついてしまうことは、ターミナルにおける「安楽死」のケースを引き合いに出すまでもなく、すでにこれまでの多くの臨床例が教えてくれています。

 

昨年も、川崎の病院で、喘息の発作で搬送されてきた患者さんの呼吸器を抜管し、さらに筋弛緩剤を投与して、患者さんを死亡させた事件がありました。このケースでも、患者さんの意向が確認されていなかったことはもちろん、家族の同意も得られていませんでした。もしもこの医師の行為が、見るに忍びないほどの喘息の発作でもがき苦しむ患者さんの姿を目の当たりにして、「人としても、また医師としても、この終わりなき苦しみから患者さんを解放してあげることこそが人間的使命なのだ」という“ヒューマニズム”に基づいたものであったとしても、倫理的には(もちろん法律的にも)正当化することはできません。その意味では、個々の医師の人格性のみに期待するethicsは、先の「豊富な臨床経験」を持ち出すことと大差ないと言わざるを得ません。

 

臨床決断にとって重要なEthics-Based Medicineとは、「客観的な医学的データのみからでは、<いかに行為すべきか>という規範的な価値判断は導き出せない」というEvidence-Based Medicineの限界点を、むしろその出発点とします。

 

(もちろん【喫茶☆りんり】では、EBM(Evidence-Based Medicine)が不要だ、といいたいのでは決してありません。その成果に立脚した上でのEthics-Based Medicineなのです。この点については後でまた触れたいと思います。)

 

もしもEBMが、真に患者中心の医療を実現するために不可欠なものであるとするならば、EBMは患者のニーズと価値観に基づき、その意向をどこまで実現することができるのかについて、ひとりの医師のみの価値観に基づいて判断するのではなく行為誘導的ないくつかの規範的な原則を「導きの糸」とする実践的な価値判断の多角的分析の手法に基づいたEthics-Based Medicineでなければならないと、【喫茶☆りんり】では考えています[12]

 

 

「価値判断の多角的分析の手法」とは何か?

 

では、規範的な価値判断を含む臨床決断を導き出すための「価値判断の多角的分析の手法」とは、いかなるものであるべきなのでしょうか

 

以下では、「CPR施行をめぐる事例」(以下「事例」)に基づいて、臨床倫理学的な手法に関する理論的検討を加えつつ、Ethics-Based Medicineにとっての有効な基礎理論の基本的方向性を提示してみたいと思います。

 

【事例】

進行ガン末期、50代後半の女性患者。膵ガンの発見が遅れ、骨転移も見られる。本人は抗がん剤治療の副作用を嫌がり、現在は放射線治療のみ。体力の消耗はあるが、意識は清明であった。万一の時の延命治療に関する詳しい話し合いは家族となされておらず、本人からのDNR希望もなかったが、かつて自分の父親の臨終に立ち会った際、たくさんの親類や知人に囲まれて父が息を引き取る姿を見て、「自分の最後は、自分の意見を尊重して欲しいと思っていたけど、命というのは、自分だけのものではないんだなぁ」と感じたことがあったと、患者本人が病室で家族に話していたことが看護日誌に記されていた。数日後、急激な血圧低下と共に意識混濁に陥ったため、家族に危篤状態であることをスタッフ・ナースが電話連絡をしたところ、「死に目には必ず会えるようにしてほしい」と言われたため、昇圧剤等の救命薬剤を投与したが効果が得られず、心肺停止状態となった。患者の家族が病院から遠方にいたこともあり、なかなか到着しなかったこともあって、電気的除細動とアンビューバッグによる補助呼吸等によるCPRの施行が検討されたが、患者の年齢、および疾患状況から、成功率は10%以下であるという医学的判断に基づき、主治医は「CPRは施行すべきではない」と判断した。ようやく駆けつけた家族は、「死に目には絶対に間に合うようにとお願いしたのに、何もしてくれなかったのか」と、医師たちに不満をぶつけた。

 

 ではまず、「事例」にある「CPRの成功率が10%以下であるから、施行すべきではない」という価値判断を、メタ・エシックスと呼ばれる倫理学の立場から見た場合、どのように捉えることが可能なのでしょうか。

 

【喫茶☆りんり】では、すでにEBMの問題点を考察した際にも述べたように、「事実のみから価値判断を導き出すことはできない」という立場を基本的に支持します。したがって、「事例」中の「CPRの成功率が10%以下である」というのは事実認識であると考えます。それゆえに、この判断が正しいかどうかは、真偽に関わる問題ですから、この前半部分の命題には価値判断は含まれていないと言いえます。

 

このケースにおけるCPR成功率が、本当に10%以下なのかどうか、それは医科学的データに基づいて真偽が確かめられるべき問題です。したがって、もしそのデータが間違っていれば、この判断の出発点がそもそも誤っているということになります。ですから、ここではまさにEvidence-Based MedicineとしてのEBMによる精緻なエビデンスに基づいた事実確認を行うことが求められるのです。

 

けれども、規範的な価値判断を含む最終的な臨床決断にとって重要なのは、この価値判断全体の倫理的妥当性の鍵を握っている後半の「施行すべきではない」という部分です。

 

さて、価値判断を含んでいるがゆえに、これは確かに倫理的価値判断なのですが、「施行すべきではない」とする論拠が示されておらず、論証の構造としては不十分であり、倫理的判断としては妥当性を欠いていると言わざるを得えません。

 

それは何故でしょうか?

 

その理由は、「成功率が10%以下である」という事実命題から、一足飛びに「施行すべきではない」という価値判断が導かれてしまっていて、<なぜ施行すべきではないとするのか>という根拠が明示されていないからです。この判断には、実際には「CPRの成功率が10%以下の場合、患者にCPRを施行することは無益(futility)である」、「無益なことを患者になすべきではない」という別の価値判断が隠されているのです。

 

事実的前提だけから、価値判断を含む結論を導き出すこと、あるいはまた、事実的前提が与えられている場合に、その事実とある価値判断との結合関係を明示しないままに道徳的推論を行うことを、メタ・エシックスでは「自然主義的誤謬」と呼びます。

 

 

医学的「事実」だけから、倫理的「価値」は導き出せない

 

ですが、「自然主義的誤謬」を犯しているからといって、「CPR成功率が10%以下なら、施行すべきではない」という価値判断が「倫理的に間違っている」という結論が必然的に出てくるわけではありません。この段階ではまだ、「CPR成功率は10%以下である」という事実命題と、「施行すべきではない」という価値判断の論理的な結合関係に問題があって、「成功率10%以下」という事実のみからでは、「CPRは施行すべきではない」という倫理的判断は導き出せないということ、またそれゆえに、この倫理的判断は、妥当性を欠いている、あるいは、正当化されえない、ということが言えるだけです。ですから、決してこの倫理的判断を行った医師に対して、「道徳的に間違った行為をした」と断罪して非難を浴びせたり、ましてや「非人道的な医師だ」と誹謗中傷したりすることに結びつけるようなことはできないし、あってはならないことです。

 

 メタ・エシックスの理論的方法は、言語分析をベースとし、倫理的判断の論証構造の不備を浮き彫りにする「非規範的アプローチ」と呼ばれる手法です。

 

ですから、この医師が<どうすべきであったか>という積極的な行為指針の提示までをも、メタ・エシックスに期待することはできません。もっともこの時点でも、少なくともこの医師は、医学的データに基づいた医学的適応のみで判断すべきではなかった、と言えなくはないです。しかし、この「医学的適応のみで判断すべきではなかった」ということを、今回の「事例」において積極的に行うべき唯一の「善い行為だった」と規範的に主張することは、まだこの段階では到底できません。

 

少なくともこの段階で言えることは、この倫理的判断の論証構造の中に滑り込まされていた「CPRの成功率が10%以下の場合、患者にCPRを施行することは無益である」という判断の妥当性を問い直す必要がある、ということだけです。

 

成功率10%以下のCPR施行を、「いったい誰が(医師なのか、その他の医療チームのメンバーだったのか、あるいは患者本人そして、患者の家族だったのか等)」、「何を価値基準として(「無益」とする価値基準は何だったのか、あるいは、そもそも本当に「無益」だったのか、等)」判断すべきだったのか、こうした点を問い直す作業が、さらに求められることになります。

 

それでは、次に、これらの問題について、「規範倫理学」(=ある倫理問題に対して、どう行為すべきかについての実践的な行為指針を提示し、それを理論的に正当化することを目標とする倫理学)の主要な理論的立場から考察してみることにしましょう。

 

 

〔1〕原理・原則に基づくアプローチ(principle-based approach)

 

規範倫理学は、ある具体的な状況下で倫理的問題や道徳的ジレンマに直面した場合、それに対してどのように行為すべきか、という行為指針を提示し、その妥当性と正当化を扱うことを目標としています。その際、規範倫理学におけるさまざまな理論的立場の中でも、もっともイメージしやすいものとしては、何らかの原理や原則を立て、その原理・原則に照らして倫理的な価値判断を行う、というアプローチでしょう[13]

 

 

「4つの原則」理論

 

 臨床上のさまざまな倫理問題に対して、原理・原則に基づいてアプローチする方法には、「4つの主要な原則」を基本において、臨床上のさまざまな道徳的ジレンマに対応するという手法があります。この理論的立場は、いわゆる功利主義的立場と義務論的立場のいずれか一方を採用する、という性格のものではなく、この両方の立場を折衷したものとなっています。

 

この立場では、4つの主要原則を掲げつつも、個々の臨床ケースにおいて、どの原則を優先すべきか、具体的な状況を勘案しながら調整を図りつつ、直面している道徳的ジレンマに対する倫理的判断を行い、何をなすべきかという行為指針を提示しようとします。

 

その4つの原則とは、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、

 

@ 自律尊重respect for autonomy

A 仁恵・善を為すことbeneficience

B 無危害・害を与えぬこと nonmaleficience

C 正義・公正さ justice

 

の4つです。

 

功利主義や義務論における原則が例外を認めず、むしろ例外を持ち得ないからこそ原則であるとされる「強い原理」であるのに対し、この4つの原則を打ち立てたTom.L.BeauchampJ.F.Childressによると、原則と他の義務とが衝突しない限り拘束力を有する、という「暫定的な(一見自明な)原理 prima facie principle」だとされます[14]

 

したがって、上記の4つの原則を、具体的な個々の臨床ケースに応用する場合には、それぞれの状況に応じた「特定化 specification」と、四つの原則間の調整を図る「比較考量 balancing」が不可欠であるという注意が促されてもいます。

 

 

臨床ケースと「4つの原則」理論

 

では、先の「事例」の場合、この4つの原則を適用して検討してみるならば、どうなるでしょうか?

 

まず最初の「自律尊重」の原則を考えてみますと、何よりも患者の自律性が重要だということになります。ですが、今回の「事例」の場合、患者自身のCPRに対する意向は明確になってはいませんでした。ただし、看護日誌に、その意向を推定する判断材料になりうる記述が存在してはいました。しかしながら、そこから患者さん本人の推定的意思を推し量り、患者さん自身の自律的な自己決定となしうるかどうかは、微妙なところですね。

 

次に、第2の仁恵原則です。

この原則に従うなら、患者に有益な「善いこと」を為す必要があることになります。そうすると、成功率10%以下のCPRは施行すべきかどうかは、その有益性如何にかかってくることになりますが、この主治医はそれは「無益だ」と判断していました。すると、有益ではないのだから、施行すべきではない、という倫理的な判断は正当であったかのように思われますが、しかしすでに道徳的推論の論証構造を検討したところで明らかになったように、成功率10%以下という事実だけから、「無益だ」という価値判断を必然的に導き出すことはできなかったわけですから、むしろ10%以下であってもそれは患者さん(および患者さんのご家族)の立場からすれば有益である、という判断が導き出される可能性も否定できなくなってしまいます。

 

第3の無危害原則です。

成功率10%以下のCPR施行が無益である、という判断に基づき「施行しない」ということは、確かに、少なくとも患者に危害を加えるものではないと判断できるかもしれません。しかしもし仮に、患者さん(および患者さんのご家族)の立場からすればCPR施行が有益なものである、と判断された場合には、CPRの施行は「危害を加える行為」とは言えなくなってしまいます。

 

最後に、公正原則です。

もしもこの主治医が、これまでの臨床経験の中で、今回と同じようなケースに複数回直面してきたことがあり、その度に成功率10%以下なら、CPR施行は無益だという判断を繰り返し行ってきていたとするならば、医療資源配分の公正さという観点から今回も同様の判断を下さないと、これまでの患者さんとの不公正さが生じる、とする意見が可能です。しかしながら他方で、今回は、患者さんのご意向を推定させる看護日誌上の記録があったのだから、「公正さ」という観点だけから、「CPRは施行しない」という倫理的判断を正当化することはできない、という反論もありえます。

 

 

「原則主義」という批判

 

 こうしてみてみますと、4つの原則はまさに「暫定的な原理」であって、個々の具体的な臨床ケースに応じて、その内実が特定化され、それと同時に4つの原則間のバランスが調整され、どの原則を優先させるかが明らかになっていく、ということでしたが、実際にはこうした比較考量を行えば行うほど、これら4つの原則の抽象性が浮き彫りにされ、どの原則も決定的に優先的な位置を占めることができず、具体的な行為指針とはなりにくいことが露呈してくることがわかります。

 

こうしたことから、この理論に対しては、4つの原則を臨床の現場に「当てはめる」トップ・ダウン型の理論という意味合いを込めて「原則主義 principlismという批判がなされることもあります。また、この理論が、ジョージタウン大学を中心に打ち立てられたことから、「ジョージタウンの呪文 Georgetown mantra」と揶揄され、あたかも4つの原則をお経のように唱えていれば、臨床上の倫理問題が解決できるものであるかのように誤解されたこともありました。

 

ですが、ビーチャム自身も「特定の状況からくるニーズや要求に合うよう、原理の内容不足が乗り越えられるよう、そして道徳的衝突に立ち向かえるように、原理の指向するところを特定化すること」[15]が必要であると述べているように、決してこの4つの原則は、それを当てはめれば、たちまちの内に道徳的ジレンマを解決することができる「万能薬」でも「特効薬」でもなく、やはり個々のケースの中で検討が加えられてはじめて意味のあるものになることを理解しておく必要があるでしょう。

 

 

〔2〕ケース・アプローチ(case-based approach)

 

 臨床ケースに基づくアプローチは、上述のような「原理・原則に基づくアプローチ」、特にビーチャムとチルドレスによる4つの原則に基づく理論に対するアンチ・テーゼとなっています。つまり、原則主義的な方法論では、いくら具体的なケースの中で検討が加えられると言っても、やはり「トップ・ダウン」型であることに違いはなく、そのような原則の「応用」として臨床倫理学を構築することは、抽象的な原則と、臨床現場の具体性との乖離を大きくするだけであるという批判が基調となっています。

 

 

カズイストリ(決疑論)

 

 ケース・アプローチの中でも、臨床ケースに対して原理・原則を「当てはめる」ような「応用applied」倫理学と定義づけるのではなく、個々の臨床例を集積し、「ケース・メソッド(case method)」と呼ばれる手法をその方法論とする「決疑論 casuistry」という理論的立場から基礎付けようとするアプローチがあります。

 

では決疑論において原則というものは、どのような位置を占めるのでしょうか?

 

『臨床倫理学 clinical ethics』を記したAlbert R.Jonsenは、彼が委員を務めた米国の生命倫理に関する国家委員会での経験を踏まえて、原則には「行為誘導的性格 action-guiding character」があることを認める「適度な個別主義 moderate particularistの立場を取ります。これは、同じカズイストであり、同じく国家委員会のコンサルタント兼スタッフを務めた僚友、Stephen Toulminが徹底して「個別ケース重視」の立場に立とうとする「徹底的個別主義 radical particulraristの立場とは異なり、ジョンセンの立場では、決疑論とは「原則に完全に取って代わるようなものではなく、原則の展開と発展にとって必要な補完物である」[16]とします。しかし、決してビーチャムやチルドレスらの4原則から出発するような演繹的なトップ・ダウンの手法をとるのではなく、あくまでもケースから出発する(case-driven)「ボトム・アップ」をベースにするということも強調しています。

 

ジョンセンらの「ケース・メソッド」と呼ばれる方法論は、できる限り多くの議論の累積(accommodation)を図り、それらをアナロジカルに分析し、厳密な理論知(エピステーメ)ではなく、実践知(フロネーシス)としての実践的解答(practical resolution)を導き出すことを目指すものです。

 

こうした「実践知(フロネーシス)」を得ようとする決疑論の手法を基に、ジョンセンらは症例分析のための「4つの項目 four topics」@医学的適応 medical indication、A患者の意向 patient preferences、BQOL、C周囲の状況 contextual features:「4つの項目」を「表」にしたものは、ここをクリック。)を挙げています。この4項目は、決して「原則」を意味するのではなく、直面しているケースに含まれている多くの事実を整理し、その重要性をさまざまな角度から検討、考察、評価するための、いわば「チェック・シート」の役割を果たします。

 

(このジョンセンの「4つの項目」を用いた臨床倫理学の手法については、佐賀医科大学の白浜雅司先生による、先進的な取り組みがあります。是非、白浜先生のホームページをご覧ください。【喫茶☆りんり】も、この白浜先生の取り組みから大変多くのものを学ばせて頂いています。また【喫茶☆りんり】のマスターと同じく、哲学・倫理学を専門とする立場から、臨床現場へ深く関わっていこうとする姿勢を貫かれている清水哲郎先生のホームページも、是非ご覧ください。マスターは、この清水先生の取り組みを知って、「私にも何かできるはず・・・頑張らねば!」と奮い立たされました。)

 

 

決疑論と「4つの原則」理論

 

 ところでこうした4つの項目を眺めてみると、そこにはビーチャムとチルドレスによる「4つの原則」が、別の形で盛り込まれていることに気付かされます。

 

まず「自律の尊重」は、「A患者の意向」として、次に「仁恵・善を為すこと」と「無危害・害を与えぬこと」は、「@医学的適応」の中で治療のリスクと便益(benefit)、そして無益性(futility)という形で、また「正義・公正」については、「C周囲の状況」において、医療資源の配分や公共の利益を勘案する、という具合です。

 

実際、ジョンセン自身も著作『臨床倫理学』の中で、「われわれの方法は、原則や理論の重要性を否定するものではない。事実それらなしにはこの方法は成り立たないだろう」と述べ、「ビーチャムとチルドレスによる『生命医学倫理の諸原則 Principles of Biomedical Ethics』等の重要な文献もくり返して引用する」[17]と述べています。けれども、原則は確かに重要ではあるが、自分達の方法は「症例と密接に結びつき、抽象的な原則や理論とはゆるやかに結びついている」とし、例えば先の「自律尊重の原則」に対しては、それは大まかで一般的な表現であるがゆえに、臨床倫理的な決疑論にとってはやはり抽象的であって、こうした原則は、「患者がよく熟慮した上での意向を尊重せよ」であるとか、「患者の価値観を尊重せよ」といった「格率 maxims」の水準にまで具体化されなくてはならない、とも述べています。

 

 

「トップ」 vs 「ボトム」 ―その対立を越えて

 

 Bernard GertとDanner Clouserによって「原則主義」という批判を受けたビーチャムとチルドレスの「4つの原則」理論は、カズイストからも、その演繹的な「トップ・ダウン」型の手法が批判されていることを見てきました。ですが反対に、彼らの立場から決疑論に対しては、歩みよりとも取れる、次のような反論がなされています。

 

「決疑論者と原則論者は共に、事例や政策を考察する前に、次のことに同意すべきだと思う。すなわち、(一)事例での具体的経験を参照せずに形成された原則は、ほとんどないこと。(二)一般的な規範との関わりなしに、それだけで典型的事例となったケースもほとんどないこと、である。」[18]

 

臨床倫理の基礎理論として、「トップ(原則)」か、「ボトム(事例)」か、いずれをその出発点とすべきか、という問題は、その問いの立て方そのものが誤っていると言えるでしょう。少なくとも明確に言えることは、決疑論も4つの原則理論も、「原則」を指標とするか、「格率」を指標とするか、という違いはあっても、いずれの立場もある一定の普遍性を持つ規則命題を立て、それを「導きの糸」としながら、直面している混沌とした事態を整理し、状況をある程度単純化することで思考の道筋を明晰にしていこうとする手法を採用している、という点では大きな違いはない、ということであるでしょう。

  

 

〔3〕フェミニスト・アプローチ

 

 もうひとつ、ケース・アプローチに近い立場ではあるが、これまでのすべての倫理理論は「男性的な原理」に基づくものであるとして、それらとは一線を画する「フェミニスト」の立場からのアプローチがあります。

 

 

ケアの倫理と看護倫理

 

 Carol Gilliganの「ケアの倫理」は、「看護倫理 nursing ethics」に多大な影響を与えています。Nel Noddingsは、著書『ケアリング』の中で、ギリガンの業績を称えながら、「倫理学はこれまで、主として父の言葉で語られて来たと言えるだろう。すなわち、原理や命題という形で、正当化、公正、正義といった言葉を用いて。母の声を聴くことはなかった。人のケアリングと、ケアしケアされた記憶とが倫理的な応答の基礎をなすものであると私は主張するつもりである」[19]と述べ、ケアに基礎付けられた「看護倫理」の確立を目指そうとします。

 

いわば、男性を圧倒的多数とする医師の「原理・原則を適応する倫理」は、「原理志向的(principle-oriented)」であるのに対し、<他者(特に患者)のニーズにいかに応えるべきか>という視座に立つ、女性を中心に構成される看護師たちの倫理的感受性は、「理論」によって原理・原則を教え込まれるようなものではないと主張します。

 

 

医療倫理 VS 看護倫理?

 

「医療倫理が、公正な規則と原理を前提とする一方で、看護婦たちや看護にふさわしい倫理は、その源泉を具体的な関係とケアのうちに持っている」[20]と主張するHelga Kuhseや、先のノディングス達は、「男性的原理」を含んでいる従来の医療倫理の手法と看護倫理は決して相容れないと主張します。

 

ですが、原理・原則に固執するのではなく、具体的状況における人間関係を重視する「道徳的感受性」が、女性にのみ特有のものであるとする立場は、生物学的性差に基づく過度な性差主義を助長することにもつながりかねません。ギリガンが浮き彫りにした「正義の倫理」と「ケアの倫理」という道徳性発達のジェンダーによる違いは、おそらく、男女に対する社会的な役割期待の違いに基づく道徳的価値観に対する教育のあり方に由来するものではないでしょうか。

 

したがって【喫茶☆りんり】では、両者は対立するものではなく、むしろ相互に補完しあう関係にあると考えます。また、従来の医療倫理の手法を「トップ・ダウン」型の原則主義であると批判するケアの倫理をベースとする看護倫理の姿勢は、状況倫理(については、ここをクリック・・・といいたいところですが、現在準備中です^^;)や決疑論等のケース・アプローチと多くの点で共通するものであるだけでなく、具体的な臨床の現場に即した臨床倫理を築き上げていく上で不可欠な要素を有していると考えます。

 

状況倫理や決疑論も、個々のケースの具体性を重視する理論的姿勢をもっているが、ケア倫理の強みは、やはり直面している状況における具体的な人間関係、とりわけ患者さんと患者さんを取り巻く人間的紐帯に対する「配慮」と、そこで求められているニーズに対する「応答性」にあると言えるでしょう。状況倫理や決疑論には、必ずしもこうした患者と患者の家族からのニーズに対する強い応答性が含まれているとは言い難いです。

 

 

臨床ケースとケア倫理

 

しかしながら、このケア倫理の強みは同時に弱点にもなりうるものです。

ギリガンが明らかにしたように、ケア倫理にとって、道徳性の評価軸は、原理・原則の遵守と首尾一貫性にあるのではなく、目の前で展開されている具体的な人間関係の維持と、そのための他者からのニーズに、いかに、またどの程度応えられたか、というところにあります。

 

これは、道徳的ジレンマの解決に際して、直面している問題の性質を抽象化してルールを適応するのではなく、むしろ関係の維持のためならばルールを侵犯することも厭わない、という傾向を生み出す可能性があります。この傾向は、客観的に公正だと判断できなくとも、当該患者にとって主観的な苦痛や被害さえなければ、その行為は正当化される、という狭隘な価値判断にもつながりかねません。

 

先の「事例」でも、もしも主治医の判断に対して、スタッフ・ナースが、看護日誌の記載を見て、「患者さん本人も、家族も、死に目に会えることを望んでいる」ということのみを倫理的な価値判断の主軸に据え、主治医がCPRを施行しなかったことに対する道義的・倫理的責任を追及するような態度を取ったとすれば、それは「私の周囲の人間関係内にとどまる態度」[21]であり、「遠くの問題から目を背ける」という近視眼的な状況埋没的姿勢となってしまいます。

 

こうした点は、いかに患者や患者の家族の意向を大切にすることが重要であるとしても、やはり原理・原則を行為誘導的な指針とする「正義(公正)の倫理」によって、補正されなくてはならないと言えるでしょう。

 

 

ケース・アプローチによるEthics-Based Medicineの可能性

 

では、【喫茶☆りんり】としては、「臨床倫理学」に対して理論的にアプローチする際に、どのような立場を取るのでしょうか?

 

すでに決疑論と「4つの原則」理論との関係について述べたところでも触れたように、【喫茶☆りんり】でのEthics-Based Medicineの基本的な理論的立場としては、やはりケースをベースにします。ですが、原則による行為誘導的な拘束力も認めます。そして、ある一定の普遍性を持つ規則命題を立て、それを「導きの糸」としながら、直面している混沌とした事態を整理し、単純化することで思考の道筋を明晰にしていこうとする手法を取ります。その際、先に考察した「4つの原則 four principle」及び「4つの項目 four topics」を、当面の有効な「導きの糸」とすることを支持します。

 

けれども、臨床上の道徳的ジレンマとは、疑いの余地のない唯一の結論が導き出されることはほとんどないといってもよく、さまざまな要素を勘案すると、どちらかといえばこれが妥当であるだろう、という「蓋然的な性格(もっともらしさ:probability)」を持つものであることも支持します。

 

また、義務論なのか、功利主義なのか、といったどの倫理理論の立場にたつのか、ということそのものが重要であるとも考えません。先の「事例」でも、やはり実際には、CPRを施行した場合としない場合のそれぞれの結果を比較して、どちらが患者にとって「最善の利益となるのか」と思い悩むでしょうし、また、無駄だとわかっているCPRを、患者の家族が死に目に間にあうように行うことは、患者の人格の尊厳に反するのではないか、という考えが頭に浮かぶこともあるでしょう。

 

わたしたちは実際にある道徳的ジレンマに直面した場合、ある時は「行為の結果」を予測して判断しようとするし、ある時は「行為の動機」を見つめています。そうしたときに、最終的に自分は、義務論なのか、功利主義なのかを思い悩むことが重要なのではなく、大切なことは、道徳的推論によって導き出された倫理的判断が、独善的なものになっていないかどうか、考慮すべき事柄を、できる限りすべて考慮できたかどうかを、限られた時間の中で精一杯、振り返り続けることであると考えます。

 

それも、主治医ひとりで行なうのではなく、複数で、しかもできるだけ多面的、多角的な視点から振る返ることが不可欠です。

 

 

時系列で考える −現場は「生きている」

 

そしてまた、Ethics-Based Medicineを考える上で、とりわけ重要なことは、「時系列」で考える、ということだと【喫茶☆りんり】は考えます。

 

最も重要視しなければならないと思われる「自律尊重の原則」、すなわち「患者の意向」を例にとってみても、患者さんの自己決定は常に「揺らぐもの」であることを忘れてはならないでしょう。

 

たとえ患者さんが自ら署名した「同意書」があったとしても、たしかにそれは強力な行為誘導的性格を持つ指示文書となりうるし、その意義を十分に認めなくてはならないことは言うまでもありません。ですが、それをもってして患者さんの自己決定が確定した、「揺るぎない自律の証だ」として絶対化することはできませんし、患者さんのご家族も、常に動揺の波の中にいることを忘れてはならないでしょう。

 

先の「事例」でも、患者さんのご家族は「死に目に会えること」を切望しておられましたが、それが叶えられず、医師や看護師に不満をぶつけていました。けれどその不満が、その後、どこへ向かっていくのかは、今後の医師と看護師の対応如何にかかっています。

 

患者さんのご家族と医療者側の価値観が対立した、という固定点のみで考えるのではなく、時系列で考えるならば、次のようになります。

 

(1)まず「CPR施行が無益だ」とする価値判断については、やはり急変期以前に主治医と患者、患者の家族、そしてスタッフ・ナースを交えて、話し合いが行なわれておくべきであったこと、

 

(2)しかし、それがなされていなかったという状況のもとでは、成功率10%以下という医学的適応について、患者の家族に伝える時間がなかったとしても、医師の独断で決めるのではなく、チームで検討を加える努力を行なうこと、

 

(3)その時間もなかった場合、最終的に昇圧剤等の救命薬剤の投与を行なったが、効果が得られず、除細動やアンビューバック等を用いた蘇生術を行なうことを考慮したけれども、成功率が10%以下であることと、助かる見込みがほとんどないのに、負担が大きいであろう行為を行なうことは、「ご家族の皆さんが、患者さんが旅立たれる前に一目でも会っておきたいという希望をお持ちであったことは十分に理解はしていたけれども」、患者当人にとっては苦痛を与えるだけだという判断をしたこと、等を丁寧にきちんと、患者の家族に伝えること、が重要であると考えます。

 

最後の(3)の行為が、たしかに「倫理学的」にみて厳密で整合的な「理論知(エピステーメ)」として「正当化」されうるかどうか、という問題があります。おそらくそれは、どんな倫理理論の立場からでも何らかの「ほころび」が随所に見出されて、果たしえないでしょう。けれども、唯一無二の結論とは言えないにしても、蓋然的な「実践知(フロネーシス)」としては、支持しうるものであると考えます。

 

 

臨床倫理のコアとしての「想像力と共感」

 

医師や看護師などの医療従事者にとって、病院という世界は、きわめて当たり前の日常的世界です。しかし患者さんと患者さんのご家族にとって、「病院」という世界は、そこに居る、ということだけで「非日常的」です。それに加えて、疾病いう非日常的な心身状態にあるのだ、ということを忘れるわけにはいきません。

 

これが、ケア倫理の「人間的紐帯への配慮(ケア)」ということが教えている内実にひとつでしょう。患者さんと患者さんのご家族の立場にわが身を置いて、その立場から臨床を見ようとする「想像力と共感」[22]、これが臨床倫理のコアであり、それなくしては、いかなる理論も原則も、なるほど確かに倫理「学」としては成立するかもしれないが、臨床倫理には役立たないでしょう。

 

「患者の自律を尊重せよ」ということも、「害をなすな」ということも、「善を為せ」ということ、そして「公正であれ」ということも、すべて医療従事者という立場にありながら、あえてその視点から離れて、患者と患者の立場から考えようとする努力を忘れてしまっては、単なるスローガンに終わってしまうか、悪くすれば「患者のために」という形骸化した言葉だけがひとり歩きし、独善的な「倫理的」判断を導くだけに終わってしまいます

 

ですが、このことは、「医療従事者は患者の意向にどこまでも盲目的に追従せよ」ということを意味しているのでは決してありません。また、「想像力と共感」を働かせるということは、単に患者や患者の家族を憐れみ、すでに述べたように、“優しさに溢れた”「同情的態度」で接することとはまったく違います

 

患者さんの意向を受け止めつつ、どこまでそのニーズに応えていくのか、その答えを見つけるためにこそ、臨床倫理の「導きの糸」による複合的な倫理的価値判断のプロセスがあります。

 

そのためには、症例検討会などにおいて、チームのメンバー全員が、さまざまな角度と視点から、相互に各自の「前提された(隠された)価値観」を道徳的反省の対象とし、道徳的推論を行ない合えるような、エシックス・ケース・カンファレンス(倫理的症例検討会)の機会を設けることが、きわめて重要になってきます。

 

 

エシックス・ケース・カンファレンスの目的

 

エシックス・ケース・カンファレンスの目的は、そのケースにおいて、当該医師やチーム医療のメンバーが、まさに直面していたその時に行った行為を、さらしものにし、糾弾するような性格のものでは決してないし、あってはなりません。

 

そうではなく、そのケースにおいて、何が倫理的な問題であったのかを同定し、倫理的ジレンマがどこにあったのか、本当に悩むべき倫理問題はどこにあったのかを整理し、今後、同じようなケースに直面した時に、再び同じような倫理的ジレンマに苦しむことのないように、解決への道標を築き上げていくことが目的なのです。

 

忙しさのなかで過ぎ去ってしまった事例の中に、倫理的問題を考える上でのたくさんの「宝物」が詰まっているのです。それを「活かす」ことがエシックス・ケース・カンファレンスの目的です。

 

事前に行っておくべきことは何だったのか、それができていない状況に直面した場合には、どうすべきなのか、行為が過ぎ去った後に、反省すべき点はどこにあったのか、これらを検討し、蓄積していくことが、エシックス・ケース・カンファレンスの機能であり目的なのです[23]

 

 

Ethics-Based Medicineとしての臨床倫理学の構築のために

 

Ethics-Based Medicineは、臨床の現場から作られなくてはなりません。

ですがこのことは、医療の専門家だけに任せておけばよい、ということを意味しているのでは決してありません。なによりも患者さんと患者さんのご家族との共同作業なくしては、成り立ち得ません。

 

また、医療を専門としない法律学者や社会学者、そして哲学者、倫理学者などの協力も、やはり不可欠であるでしょう。けれども、そうした理論研究者も、もし臨床倫理学に関わろうとするのであれば、臨床の現場へ深く関わっていくのだという自覚と責任感を持たなくてはならないでしょう[24]

 

理論研究の「片手間に」、与えられた臨床ケースを、格好の論文テーマの材料を手に入れて、まるで難解なパズルを解くかのように、整合的な理論的解答を出すことだけに目を奪われたり、倫理委員会の席上で「倫理学的に」問題だと思われる点を、あれやこれやとあげつらい、問題をひっかきまわすのみで、後は現場の医療従事者だけで考えれば良いとする、一見「謙虚」ではあるが、きわめて無責任な態度は、戒めなくてはなりません。

 

ひとつひとつの臨床ケースに関する資料の文字と、そのケースを担当する医療従事者達が語るひとつひとつの言葉の背後には、病と闘い、苦悩する患者と患者の家族がいることは、常に忘れてはならないことです[25]その意味では、患者や患者の家族に直接触れる機会がなく、臨床の生きた臨場感を直接体験することのない、臨床倫理学に関わる理論研究者(特に哲学・倫理学者)にこそ、臨床倫理学のコアとなる「想像力と共感」が、強く要求されると言えます[26]

 

マスター自身への自戒の念も込めつつ・・・。

 

 

  *この「EBM(Ethics-Based Medicine)」宣言は、医学書院から出版される予定(2003年春)の『臨床倫理学入門』に収録されている「臨床倫理学の基礎理論」を、約4分の1の分量にカットし、EBMの箇所を加筆して、「です・ます」調に書き改めたものです。より詳しく内容をお知りになりたい方は、『臨床倫理学入門』をお買い求め頂ければ幸いです(その前に、ちゃんと出版されるのかどうかが問題ですが・・・(^^;)

 



[1] 厚生省健康政策局研究開発振興課医療技術情報推進室(監修)『EBM講座』厚生科学研究所、2000年。

[2] 上野文昭「EBMへの批判に応える」『EBMジャーナル』Vol.2,No.3,2001年、P.58。

[3] 大生定義「大規模臨床試験の結果を盲信して個々の患者に適用するのは問題である、という批判」『EBMジャーナル』Vol.2,No.3,2001年、P.86。

[4] 尾藤誠司「EBMはすべての臨床上の疑問にただ1つの正解を出してくれる魔法のつえのようなものである、という誤解」『EBMジャーナル』Vol.1,No.1,2000年、P.18-23。

[5] Summary of the second report of the National Cholesterol Education Program(NCEP), Expert Panel on detection, evaluation, and treatment of high blood cholesterol in adults(Adult Treatment Panel II). JAMA,269:3015-3023, 1993.

[6] 日本動脈硬化学会高脂血症診療ガイドライン検討委員会「高脂血症ガイドライン」「1.成人高脂血症の診断基準、治療適応基準、治療目標値」『動脈硬化』25、P.1-34、1997年。

[7] 橋本淳他「高脂血症治療薬による日本人の虚血性心疾患の予防効果とリスク」『動脈硬化』26、P.157-164,1998年。

[8] 武田裕子「エビデンスに基づいたガイドラインがあればEBMは十分に行える、という誤解」『EBMジャーナル』Vol.1,No.1,2000年、P.51。

[9] 能登洋「EBMは一部の専門家だけが行う、という誤解」『EBMジャーナル』Vol.1,No.1,2000年、P.12。

[10] Guyatt, G.H.,Evidence-based medicine, ACP Journal Club.1991 Mar-April,pp.114.

[11] 名郷直樹「EBMを実践しようにもエビデンスが足りなさすぎる、という批判」『EBMジャーナル』Vol.2,No.3,2001年、P.76。

[12] 「医療現場での判断は、最終的にはすべて倫理的判断である」という立場から記された重要文献としては、浅井篤他著『医療倫理』勁草書房、2002年3月発行を参照のこと。また、「EBMはEthics-Based Medicineである」という発想は、京都大学医学研究科社会健康医学系専攻医療倫理学研究室の浅井篤助教授との談話中に着想を得たものである。生命倫理の勉強会やその他の共同研究で浅井篤助教授から受けた知的刺激は計り知れない。記して感謝申し上げる。

[13] 規範的アプローチの代表例といえば、義務論と功利主義をまず挙げる必要があるのだが、ここでは紙幅の関係上、バイオエシックスにおける「原則主義」の代表と言いうるビーチャム&チルドレスの手法から出発することにした。義務論および功利主義理論の立場からの臨床ケースに対する考察については、板井孝壱郎「臨床倫理学の基礎理論」福井次矢、浅井篤、大西基喜(監修)『臨床倫理学入門』医学書院、2003年2月発行予定を参照されたい。

[14] ビーチャム TL, チルドレス JF著、永安幸正、立木教夫(監訳)『生命医学倫理』成分堂、1997

[15] ビーチャム TL「生命医学倫理の四つの基本原理 ―原理アプローチの生成とその具体化の課題」立木教夫、永安幸正(監訳)『生命医学倫理のフロンティア』行人社、pp50-53,1999

[16] Arras, J: A Case Approach, A Companion to Bioethics, Blackwell Publishers Ltd, pp106-114, 1998

[17] Jonsen AR, Siegler M, Winslade WJ, 赤林朗、大井玄(監訳) 『臨床倫理学』、新興医学出版社、1997, pp8-11.

[18] ビーチャム TL 「原理に基づく倫理の新展開」立木教夫、永安幸正(監訳)『生命医学倫理のフロンティア』、行人社、pp89-90,1999

[19] Noddings N: Caring, University of Carifornia Press, pp1, 1984 立山善康 他(訳)『ケアリング』、晃洋書房、1997

[20] Kuhse H: Caring, pp143, 1997

[21] Pence GE: Classic Cases in Medical Ethics (3rd ed), pp25, Mcgraw-Hill, 1999 宮坂道夫、長岡成夫(訳):医療倫理1、みすず書房、pp36, 2000

[22] 浅井篤、服部健司、大西基喜、大西香代子、赤林朗『医療倫理』、勁草書房、pp292, 2002

[23] INR日本版編集委員会『臨床で直面する倫理的諸問題 ―キーワードと事例から学ぶ対処法』、日本看護協会出版会、2001

[24] 清水哲郎『医療現場に臨む哲学』、勁草書房、1997

[25] 鷲田清一『「聴く」ことの力 ―臨床哲学試論』、TBSブリタニカ、1999

[26] 中岡成文『臨床的理性批判』、岩波書店、2001

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