ミリャード・シューメーカー著、加藤尚武・松川俊夫訳

『愛と正義の構造 ─倫理の人間学的基盤─』晃洋書房2001年

 

倫理学に馴染みの薄い読者には、「完全義務」「不完全義務」といわれても、あまりピンと来ないかもしれない。訳者の言葉を借りると、完全義務とは「100%守るべき義務で、怠れば制裁がある」、いわば「最低限度の倫理(≒正義)」であるのに対し、不完全義務とは「困っている人を助けるという義務が典型例」で「誰にも達成できるとは限らないが、できれば達成したい」という「最大限度の倫理(≒愛)」である。

 

両者は倫理学という学問領域において、最も基本的かつ根本的ともいえる問題領域を形成するにも関わらず、これらを本格的に扱った研究書はなかった。「ちょっとスケールの大きい理論的スキャンダル」だと訳者が解説の中で指摘するような、倫理学史上の大きな「空白」を埋めようと試みたのが本書である。

 

では、「義務」にあって「完全・不完全」とは、いったいいかなる意味なのか?

シューメーカーによると、初期ストア派の道徳哲学者にとって、義務と言えるものはただ一つしかなく、それは「自然に従って生きる義務」であったという。掛け値なく自然に従って生きることは「完全な知恵」を必要とする。しかし、そんなことができるのは、理性に一片の情念も混入することのない「賢者」だけである。初期ストア派は、こうした「賢者の完全性」のゆえに為しうる完全な行為を「カトルトマ」と呼び、この完全性に少しでも近づこうと努力する「賢者たらんとする者(Probationer)」には、もう少し楽な義務をあてがい、それを「カテコンタ」と呼んだ。先のギリシア語「カトルトマ」を、キケロがラテン語で「完全義務(officium perfectum)」と、後者の「カテコンタ」を「中間義務(複数形:officium media)」と訳したことによって、完全・不完全の原型が出来上がる。カテコンタが「中間義務」と訳されたのは、完全義務の遂行に近づいていこうとする途上にあること、すなわち「未完了の(incahte)義務」であることに理由がある。こうして「不完全な義務」とは、「弱く過ちを犯しやすい人々」つまり「凡人」が、完全性へと近づこうとする際の「努力目標」であることになる。

 

ところが今日、先に見たように両者の関係は、「100%達成されるべき最低限の倫理=完全義務」とし、反対に「誰にでも為しうるものではなく、達成すれば賞賛される最大限の倫理=不完全義務」とする逆転現象が生じている。この布置の逆転現象は、不完全義務を「義務を超えた行為:超義務(supererogation)」と等置してしまったことに原因がある。残念ながら本書ではこの「不完全義務」と「超義務」との関係については、第4章で若干触れられているものの、必ずしもクリアーとは言い難く、混乱したままであると言わざるを得ない。

 

しかし、こうした課題を明確にしたことそのものが、本書の倫理学史上における揺るぎない画期的業績であり、必ずしもメジャーではなかった本書を発掘し、日本語に翻訳した訳者の卓眼もまた、不動の業績であるだろう。

(宮崎医科大学 哲学・倫理学研究室 板井孝壱郎)

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