【書評】

西川富雄著『続・シェリング哲学の研究 -「自然の形而上学」の可能性-』

                                                   (昭和堂、一九九四年)

     

                                                                板井孝一郎

 

  本書は、表題の通り一九六0年に公刊された前著『シェリング哲学の研究』(法律文化社)の続編をなすものである。多くの研究者が鶴首して待ち望んだ続編であるといってよいだろう。わが国では戦前から、ヘーゲルをはじめ多くのドイツ観念論研究があるにもかかわらず、ことシェリングに関してはほとんど顧みられてこなかった状況がある。こうした中で、氏はいち早くこの「哲学のプロテウス」に目を向けていた。「戦後の実存論的風潮のなかで、シェリングの『自由論』に出会って以来」、シェリング研究に着手しはじめた氏の足取りは、必ずしも直線的なものではなかったことが本書の「まえがき」を通じて伺い知ることができる。しかしまた同時に、氏の足取りが「主体としての自然」という一本の糸によって貫かれていること、そしてこの糸が副題ともなっている「自然の形而上学の可能性」を、現代というコンテクストにおいて追求しようとする姿勢の根幹にあることが理解される。

 

  では、現代において「自然の形而上学の可能性」を追求する意義とは何か、そしてまたその可能性をシェリングに定位して問う意義はどこにあるのか。第五章においてクリングスの見解に導かれながら氏は、「自然を説明する諸科学の根底に、自然を了解する学としての『自然の形而上学』の可能性」(一三三頁)があるのであって、それはまさに「説明の及ばない領域、『語りえない』領域、まさしく『形而上の』領域」に他ならないことを強調する。「科学主義の旗印のもとにどこまでも自然に沈黙を強いる」(一三五頁)のではなく、「自然をして語らしめそれに耳を傾ける」こと。そういう仕事を「詩人や芸術家に委ね」てしまうだけでは、「自然が深みから語る象徴のコトバ」を学として把握することはできない。そこにこそ「自然の形而上学」の出番があるのだと。

 

  では、このような「自然の形而上学」を可能ならしめるシェリングの<自然>概念とはどのように成立をみ、また具体的にどのような内容をもつものなのか。この課題を果たすために氏は、カントやフィヒテはもとより、ホワイトヘッド、西田幾多郎、あるいはまた安藤昌益にまで研究の眼を向けている。

 

第一章では、先験論的判断力が、いわゆるカントの言う「超感性的基体」の想定があってはじめてその可規定性を賦与されていることに注意を促している。氏によれば、この「超感性的基体」とは「カテゴリアールな悟性によって構成される自然」(一八頁)、現象的自然「より以上の自然、いやそれ以前に現存している自然」(一七頁)に他ならない。(この「超感性的基体」を、いわゆる「物それ自体」との関係において考察したのが第二章となっている。)

 

 こうして明らかにされたカントの「超感性的基体」が「もはや数学的、機械論的な自然ではなく、また単に有機体的自然に止まるものでも」(一八頁)なく、「自己形成的な自然」であることが指摘されるに及ぶとき、我々はカントを離れ「生きた自然」を追い求めたシェリングの<自然>概念に辿り着くことになる(第四章)。

 

フィヒテを扱った第三章はひとまずおき、第四章を通じてシェリングの<自然>概念へと誘われた読者は、二本の付論に挟まれた第五章、そして第六章において、本書のクライマックスを体験することになる。

 

とりわけ第六章において最も強く読者を引き付けることは、シェリング哲学の意義がヘーゲルのように「思惟と存在との同一性 Denken=Sein」をではなく、「存在と働きとの同一性 Sein=Tat 」の原理を確証すること、しかもその原理をフィヒテにおけるように単に自我の在り方だけに止めず、「全自然史過程のアンファンクとしたところにある」(一七七頁)という指摘である。(フィヒテの「事行」概念の内に「行為=存在論」を読み取り、それがフィヒテの弟子としてのシェリングにどのように継承されているかについては第三章が詳しい。)ホワイトヘッドや西田哲学との関係に関する詳述は残念ながら本文に譲るが、シェリングにおいて自然がポイエシスとして把握される際に、その根源に「在りえて、在りえないこと」を原理に据えているという指摘は大変興味深い。「在ることもできるし、ないこともできるという絶対無記(無差別)Indifferenz 」において、「自然における一切の生成の究極の目的は、まさしく根源的に在りえて、在りえないものの現実化である」(一七九頁)。

 

後にフォイエルバッハによって「夢の中にある実在哲学」であると皮肉られた(第七章)後期シェリングの存在論を、例えばルカーチのように非合理主義的であると批判することはたやすいことかもしれない。しかしヘーゲルのような有一般という「空虚な概念」が自己運動して無と成るという「本質主義」ではない、「現に在るもの」をアンファンクとなす彼の「積極哲学」が、幾分神秘主義的な語り口で彩られているとはいえ、その口調が、存在そのもの、自然そのものとしての「現の事実 Dass」へと肉薄しようとする「こと=存在論 Dass=Ontologie」と深く結び付いていることを示唆する氏の指摘には、シェリング研究者ならずとも知的刺激を受けずにはいられないだろう。

 

 かつて弘文堂の『講座ドイツ観念論』第四巻(一九九0)に収録された第九章は、一度読了した者もあらためて本書を通読してみれば、そのフィナーレを飾るにふさわしい内容であることを実感させられる。第九章には、これまでの歩みの全てが凝縮されていると言っても過言ではない。特に触れ残したこととの関わりで取り上げなくてはならないのはシェリングの「知的直観」であるだろう。「自然の形而上学」とは「語りえない領域」に成立するとされた。では、「語りえない領域」に成立するとされた「自然の形而上学」をいかにして「語る」のか、あるいはいかにしてそこに到達するのか。その方法的思惟が「知的直観」ないしは「理性=直観」とシェリングが呼ぶものである。悟性的な思考とは「あれはあれ、これはこれと分け隔てていく思考、分別的な思考」(二四二頁)であって、常に「反省」による分節化を引き起こしてしまう。これでは事態の真実相(エイドス)を捉えることはできない。「こうした分節化に先立って(ア・プリオリに)絶対的な『在り』」(二五三頁)を直観すること、その思惟はまたヘーゲルも推奨するように真に「思弁的」でもある。

 

もちろんヘーゲルが「思弁的」という時、シェリングの言う「知的直観」は、有名な『精神現象学』での批判を持ち出すまでもなく厳しく退けられるだろう。「知的直観」が「直観」である限り、それが感性的直観といかに区別されても、ヘーゲルにとってはそこに歴史的な展開の論理が欠如していることを看て取らずにはいられなかったと言いうる。果してシェリングもそのアポリアには苦心したことが氏の叙述から伺い知ることができる。「絶対同一性の『静学』は、変化と多様から成る個物の世界を基礎づける『動学』へと転回されなくてはならなかった」(二六0頁)。そこにシェリングの「展相の弁証法」誕生の秘密がある。

 

いま彼の展相の弁証法をヘーゲル的弁証法の歴史的展開の論理と比べて、その是非を評価するだけの資格も力量も評者にはない。しかし、氏の指摘するように後期シェリングの存在論の課題が「何かがある『こと』の構造を解き明かす」(二六四頁)ところにあり、それがひとつの神話的コスモロジーを「語ること」と分かち難く結び付いているとするならば、シェリングの「自然の形而上学」模索の旅路は、ヘーゲルのような「汎論理主義的枠組み」を突き抜けて、存在そのもの、自然そのものへと迫ろうとする「ひとつの試み」として評価しうるのではないか。歴史の暗闇に埋もれた「哲学のプロテウス」発掘の旅は、まだ始まったばかりである。


(いたい こういちろう・京都大学大学院)


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