崩壊していく<偉大な体系家ヘーゲル>という虚像

板井孝一郎

 

加藤尚武編『ヘーゲル哲学への新視覚』

創文社─4800円+消費税

 

 ドイツ観念論を完成させた<偉大な体系家ヘーゲル>。西洋哲学史のテキストを開いてみれば、そのほとんどに、ヘーゲルとは「壮大な哲学体系」を構想し、みずからの哲学体系をもって哲学史の終焉を宣言した絶対的観念論の哲学者だと記されている。ところが本書の中では、近年になって次々に明かされてきたヘーゲルの講義録に基づきながら、意外なヘーゲル像が浮き彫りにされている。

 

 たしかに、へーゲルが生前に公刊した著作は、匿名で刊行された「カル親書訳」を除くと、『精神現象学』、『エンツィクロペディー』、『大論理学』、『法哲学』の四つだけである。では、あの「壮大な体系」とは、いったい何だったのか。本書のなかでは、この疑問に対して次のような仮説を立てている。ヘーゲルの死後、師の全集を出そうとした弟子たちが直面したのは、著作が少なすぎるということだった。彼らにしてみれば、師の本来の著作とは『大論理学』と『エンツィクロペディー』、そして『法哲学』の三冊だけで、『精神現象学』は、体系以前の初期著作となってしまう。もしもこれだけで全集を出してしまったなら、彼らの「偉大な師へーゲル」というイメージに合わないだけでなく、遺族の生活費を出すこともできない。ここから<偉大な体系家へーゲル>という虚像をつくりあげる作業が始まったのだと言う。

 

 なんとも大胆なこの仮説はしかし、突拍子もない思い付きなどによってではなく、ヘーゲル新全集と講義録の刊行を踏まえ、きわめて精緻な文献学的研究に依拠することで導き出されたものである。この点は、本書の一大特徴をなしている。

 

 では、<偉大な体系家ヘーゲル>という虚像は、どのように作り上げられていったのか。このスリリングな知的冒険に、本書は次のように答えていく。なんとか「さまになる」全集を作り上げることで<偉大な体系家へーゲル>をつくりあげようと試みた弟子たちは、師の遺稿と聴講生のノートから講義録を編纂し、それをすでに出版された著作と合体させるという作業を開始した。ところが弟子たちを悩ませたのは、完成しているはずのへーゲルの哲学的叙述が、編纂作業を進めれば進めるほど、あまりにも末完成な姿をさらけ出してしまうことだった。作業途上で、へーゲルの自筆原稿と聴講生のノートを比べてみると、最善であるはずのへーゲルの自筆原稿は理路整然とした文章にはなっていなかった。しかも当時は、へーゲル哲学を解説するために弟子による代理講義すら行われていた状況だったので、講義録の編集作業は当然困難を極めることになった。当初考えられていた、「完成した」ヘーゲルの自筆原稿を集約すればいいというような状況ではおよそありえず、結果として、へーゲル全集の講義録は聴講生のノートを切り刻んで貼りあわせるという方法を選択せざるをえなくなった。こうした事態は、その後のヘーゲル全集における講義録編纂の実態を把握することを困難にしただけでなく、ヘーゲル研究そのものにとっても、数々の致命的な問題点を残すことになった。本書ではそれを次の四点に集約している。

 

(1)時期的に異なる講義内容を、完成された体系というイメージに合うように、完成体として一個のテクストに組み上げようとした点。

(2)編纂に使った資料を編纂後に保存しなかった点。

(3)不注意による内容の変更、もしかすると意図的な変更すらもあった点。

(4)全集として見栄えのする分量に増やすために、他人の文章からの引用を不必要に長くしてしまった点。

 

 こうして、<偉大な体系家ヘーゲル>という弟子たちのイメージに合わせた虚像づくりのための「切り貼り編集」が進んだ。その後、こうした欠陥に気づいたラッソン、ホフマイスターらによる切り貼り編集以前のヘーゲル自筆原稿に基づいた「復元編集」が試みられたこともあった。しかし、二度の世界大戦中に原資料が散逸・焼失したり、そもそもヘーゲルの自筆原稿があまりにも「未完成」すぎていたために、現行の「新全集」版では、もはや「切り貼り編集」そのものが断念され、資料そのものをそのまま公刊するという編集方針が貫かれている。

 

では、ヘーゲルが「偉大な体系家」でないとしたら、いったいその実像とはどのようなものであったのだろうか。編者加藤氏は、次のようにヘーゲルという人物像を描いてみせる。「へーゲルは非常に寡作な哲学者である。しかも、その中で完成度の高い作品はひとつもない。ギムナジウムで講義をしているときに、学生にノートをとらせて、それに自分で加筆したものを素材に次の講義をしたということが伝わっている。へーゲルは書くということに一度も情熱を感じたことのない人間である。メモ風の話の糸口があれば、とめどもなくしゃべる。ときどき泥臭いジョークを交えて、得意げにしゃべる。それがヘーゲルの自己表現であり、どんな議論でもこまかく細部をつめて文字という素材を精密に組み立てて、カードのお城のような観念体系を作ってみせるということは一度もしていない。へーゲルは自己の哲学を語ったのであって、書いたのではない。この真実を最もよく知っていた弟子たちは、語った言葉の切り貼りをして、あたかもヘーゲルが大きな体系を書いたかのような印象を作り上げた」。ここに描き出されているヘーゲル像には、もはや「壮大な体系を完成した最後の哲学者」というイメージは微塵も感じられない。

 

では、新資料に基づくことで、具体的にはいったいどのようなヘーゲル像が浮かび上がってきたのか。ここでは講義録における変更点に着眼しつつ、ヘーゲルの「自然哲学」について重要な指摘をなしている長島氏の論考を中心に紹介してみたい。

 

  長島氏は、一八一七年の『エンツィクロペディー』初版に収められたハイデルベルク時代の自然哲学と、一八二七年、ベルリンで出版された第二版における自然哲学とのあいだには、重大な相違があると言う。そしてその相違は、ヘーゲルにおける自然哲学を理解するうえで、ある決定的な意味を担っている。

 

  初版から第二版へのいくつかの変更点のなかで、われわれ読者をもっとも惹きつけるのは、初版にはなかった序論における「自然哲学とは何か」という箇所だろう。そこでヘーゲルは、われわれ人間の自然に対する態度を、まず「実践的な態度」と「理論的な態度」の二つに分類している。長島氏が特に注目しているのは、後者の理論的態度における「物理学(Physik)」と「自然哲学」の区別である。ヘーゲルの時代において「物理学」と呼ばれているものは、古代ギリシア以来の伝統を受け継ぎ、デカルト・ニュートンに至る「自然学」をその前身とするものである。自然に対する「理論的態度」において、その考察様式となるものが、この自然学の伝統を受け継ぐ「物理学」である。しかし、この物理学という考察様式は、さまざまな自然諸現象から帰納的に一般法則をたて、その普遍性に基づいて自然を「分類」しようとする。こうして「無限で多様な形態をとる自然の豊饒さ」は、一般法則という名のもとにその豊饒さを失い、「形態なき普遍性」と化してしまう。

 

 これに対して、ヘーゲルの言う「自然哲学」とは、「理論的かつ思惟的な自然考察」として、すでに登場した「実践的態度」、「理論的態度」の両者を内含しつつ、「自然の普遍者の認識をめざす」ものとして位置づけられる。「実践的態度」は、自然を感覚的対象としてのみ捉え、人間の目的を達成するための手段とみなし、自然を食い尽くしてしまうという側面をもつ。しかし、この態度が人間にとって本源的な態度であることもまた否めない。そこで「理論的態度」は、自然を欲望の対象とみなすのではなく、欲望充足という感性的次元から距離を置いて、まさに「理論的」に自然を普遍性の次元で把握しようとするものであった。しかしこの態度には、すでに「物理学」の問題として指摘されていたように、自然の豊饒さを形骸化してしまうという欠点があった。  

 

  では、ヘーゲルが提唱する「理論的かつ思惟的な自然考察」としての「自然哲学」とは、どのようなものなのか。長島氏は、それをゲーテともシェリングとも異なった内実を有するものだと指摘する。ヘーゲルによるなら、ゲーテおよびシェリングの目指したものは、「囚われない精神が生き生きと自然を直観する」という道であった。しかし、このような「直観優位」の方途では、自然を「概念的に把握すること」、すなわち自然の豊饒性が有する個別性と普遍性という、相矛盾する側面を「学的に認識すること」を放棄することになり、哲学を不可能にさえしてしまうとヘーゲルは考える。ヘーゲルが目指す「自然哲学」とは、感覚的個別性に拘泥する「実践的態度」と、抽象的普遍の名のもとに自然の豊饒さを骨抜きにしてしまう「理論的態度」の一面性を克服し、かつ両者を統一するものであることを強調する長島氏の論考は、きわめて興味深い。    

 

  しかし、ヘーゲルの自然哲学が担っているこの課題は、ゲーテにもシェリングにも共通するものではなかったかという疑問が湧いてくる。実際、長島氏も注釈の中で、シェリングもまた、一八〇六年の論考群において「特殊的自然哲学」と「普遍的自然哲学」とを区別しつつ、その両者があいまってはじめて、自然諸現象の「叙述」が可能となる方途を探究していたことを指摘している。評者自身は、ゲーテ、シェリング、ヘーゲルの三者間における「自然哲学」に対する姿勢の違いは、おそらく「直観」と「学的認識」、および「概念的把握」という自然認識の方法論についての理解の相違に由来するのではないかと考えている。この領域における今後のより一層の研究が望まれるところである。

 

  本書では、その他にも論理学、歴史哲学、美学、宗教哲学、哲学史など、さまざまなヘーゲル哲学の主要課題に関する斬新な論考が収録されている。また、巻末に付された「ヘーゲル講義活動録一覧」も貴重な資料となるに違いない。「あとがき」では、本書がもともと編者加藤氏の還暦を記念する出版事業として計画されていたことが記されている。わが国におけるヘーゲル研究を斬新な学風でリードしつつ、思想界に強いインパクトを与えてこられた加藤氏の研究姿勢の特徴点を、出版世話人を代表して山崎純氏は次のようにまとめている。

 

(一)新資料への注目…常に新しい資料にいち早く注目し、先駆的な解読・翻訳をふまえて、その文献の思想的な意義を解明する視点。

(二)ヘーゲル体系の「絶対化」の脱構築…ヘーゲルの思想を基本文献だけから完成された固定的なものとしてとらえるのではなく、たえず変化し、ほころびを含みもったものとしてとらえていく視点。

(三)データベースによる用語例の吟味…ヘーゲル読解の鍵は、ヘーゲル独自の語法の解明にあるとの着眼から、使用例をしらみ潰しにその文脈のなかで精査していくという方法を確立し、そのためにヘーゲル文献のデータベース化を行った点。

(四)発展史的・影響作用史的視角…青年期、イエナ期を中心にヘーゲルの思想形成を発展的に辿る手法を確立し、これを体系期の発展史にも拡大しながら、同時に過去および当代のさまざまな思想家との影響関係を発掘してきた点。

(五)ヘーゲル思想の現代的な意味づけ…ヘーゲルの思想をたんに過去の思想史研究としてではなく、現代の思想状況のなかでの意義を明らかにし、新しいアプローチの仕方を提起してきた点。

 

  多くの「改竄」の爪後が残った古いテキスト群から解放されて、新しい全集版と講義録の刊行に立脚し、同時代の諸学問との影響作用史を視野に入れつつ、「捏造されたヘーゲル像」を果敢に破壊していくという研究姿勢に貫かれた本書は、今後ヘーゲル哲学の研究を志す者のみならず、多くの哲学研究者に読まれるべき好著である。

(いたい こういちろう) 


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