【書評】

ヴェルナー E. ゲラベック著『F.W.J シェリングとロマン派の医学』

                       (ペーター=ラング社、一九九五年)

Gerabek, Werner E. :  F.W.J. Schelling und die Medzin der Romantik, Studien zu Schellings Wurzburger Periode, Peter Lang, Frankfurt am Main 1995.

                              

 一般の医学史書を紐といてみれば、必ずといってよいほどシェリングの名が登場する。ただし常に「悪役」として。これまで、シェリングをはじめロマン派の医学は、ほとんどの場合「非科学的な似非学問への堕落」として近代医学の発展を「妨害」した悪役として扱われてきた。しかしながら近頃、医療技術の急速な進展に伴って「生命」概念が大きく揺らいでいるためか、かつての「悪役」たる自然哲学的医学思想を再評価する動向がある。本書はこうした潮流のなかで、いわば「隠された医学史」を探究するシェリングのヴュルツブルク時代(一八〇三〜一八〇六)を中心とした医学思想の研究書である。周知のようにイエーナを去ったシェリングは一八〇三年十月にヴュルツブルク大学教授に就任するが、ここヴュルツブルクでの彼の研究の中心は、一八〇五年にマルクスと共同して『学としての医学年報』を出版したことに象徴されるように、集中的に医学研究にそそがれていた。しかも当時のドイツ医学界が機械論と生気論の間をさまよい、そのうえ通俗化されたブラウン主義的医療が信頼を失うことによって、当時の医学はもはや「学としての基礎づけ」を喪失していた。そうした状況の中でレシュラウプの試みに代表されるように「新しい医学の学問体系」が模索されていた時代にあって、シェリングの自然哲学に基づいた医学研究は、トゥルナーの言葉を借りればまさに「混迷した事態を収集する解放の哲学だった」のである。


 著者、ヴェルナー E. ゲラベック氏は一九五二年に生まれ、ヴュルツブルク大学でドイツ文学、歴史学、社会学そして医学史を学んだ後、一九八六年、ヴュルツブルク医学史研究所において共同研究員として医学史研究に従事している。さらに一九九五年には、医学史研究で大学教授資格を取得している。本書は一九九四年夏学期に、大学教授資格申請論文としてヴュルツブルク大学医学部に提出されたものを、「ヨーロッパ大学叢書シリーズ第7巻」としてペーター=ラング社から一九九五年に出版されたものである。


 およそ四百五十ページに及ぶ本文と千九百に昇る詳細な注釈、さらに約千五百の書籍と論文がリスト・アップされた関連文献リストが織り成す本書は、さながら『シェリング医学思想事典』といっても過言ではない仕上がりとなっている。本書の構成は「A.序論、B.医学上の手掛かり、文献状況および研究の概要、C.ロマン主義時代の自然哲学と医学、D.シェリングのヴュルツブルク時代、E.要約」と、大きく五つに分類されている。


 Bでは本書の基本的な研究方法とその意図が記されている。研究の方法の第一は、シェリングのヴュルツブルク時代における医学者や自然科学者たちと交したおびただしい数の書簡の分類と判読にある。但し現存する書簡の状況については残念なことに、レシュラウプに宛てたシェリングの手紙の大半、それからマルクス、シュテッフェンス、ヴァルターに宛てたものの全てが欠落している。逆にシェリング宛てのものに関しては、ヴァルター、レシュラウプ、マルクス、そしてヴィンディッシュマンからのものの大部分が残っている。研究の第一の目的は、従来のほとんどの医学史において「誇大妄想患者の業績」と叱責されてきたシェリングをはじめとする自然哲学に基礎づけられたロマン派の医学を、近代医学の発展にとっての「障害」としてではなく、むしろその基礎を築いてきた先駆者として再評価することにある。「シェリングの自然哲学においては、科学的-技術的合理性が放棄されているのではなく、自然哲学によって基礎づけられた理性批判の遂行によって、あらゆる巨大化した合理的理性が陥る近代科学の傲慢さに警鐘を鳴らすことが試みられている」ことが強調される。


 Cでは、さらに「I.若きシェリングにおける自然哲学 -広範な影響力をもった医学理論」と「II.ロマン主義時代の医学におけるメスメリズム」という2節に分類されている。前者では、シェリングの自然哲学がいかに医学思想と深い関連があるかということを、彼の根本概念と関係づけて展開している。とりわけシェリングの「有機体思想」における「感受性、被刺激性、再生」という3つの概念が、彼の3つのポテンツ論とどのように結び付いているかが論じられている。特に右に見た3つの概念がハラーやブラウン、あるいはまたキールマイヤーに由来するものであることを指摘する文献は多いが、ゲラベック氏はロートシューの見解を基礎にしながら、先の3つの概念が、全宇宙を包摂する絶対的な「大いなる有機体」によって支えられ、物質、植物、動物、そして人間を貫く根本原理として位置づけられていることを論じている点がユニークであるだろう。こうした壮大なスケールで展開されたシェリング自然哲学における有機体思想が、当時の医学者たちに与えた影響は大きく、ミュラーやライルもまた「シェリング・ウイルスに感染した」のだった。


 さて、本書の圧巻はなんと言ってもDであるだろう。シェリングのヴュルツブルク時代に焦点を絞り、第1節「I.イエーナからの脱出」に始まり、「II.ヴュルツブルクへのシェリングの招聘」を経て、「III.ヴュルツブルクにおけるシェリングの影響」が論じられている。特に最後の部分が、本書のオリジナリティーを成す「シェリング・サークル」で交された書簡研究にあてられている。ここでは、いかにしてシェリングを中心とした医学サークルが形成され、またいかに激しい内部論争が繰り広げられていたかが記されている。交された書簡は、しばしば厳しい批判や辛辣な論争の場となり、時にはシェリングへの強い結束と賛同を確認する場、また時には最新の医学理論が構想された「再重要文献」ともなった。とりわけ激しい議論がシェリングとの間で交されたのは、ブラウンの興奮学説をめぐってなされたトロックスラー、キリアン、そして親友レシュラウプとの論争であった。特に親友レシュラウプとのやり取りには興味深い点が多い。当時のシェリングとレシュラウプとの関係についてゲラベック氏は、二人がともに気性が激しく怒りっぽい性格だったために、友情関係にもヒビが入りやすかったと述べているが、先のブラウン評価をめぐってはシェリングの興奮学説に対する評価の歴史的変遷を考える上でも極めて重要であるように思う。ブラウン説の支持者ではなかったレシュラウプは一八〇五年二月十六日、および四月九日付けの手紙での2回にわたって、シェリングに対し「僕は、ブラウンの体系を決して罵ったりはしない。けれども体系としては、あるいは成功した理論ということでは認めるわけにはいかないんだ」と異論を唱えていたことが指摘されている。ツーヨプーロス女史が指摘するように、従来の因習的なドイツ医学界の診療体系を改革し「新しい医学」を目指すレシュラウプにとって、ブラウンの興奮学説は許しがたい弱点を抱えたものとして写っていたのである。


 さてゲラベック氏は、この研究論文における最大の成果は、シェリングをはじめとする当時のロマン派医学が、「思弁的方法」の名のもとに近代科学の基礎となる実験的経験的方法を拒絶していたのではなく、むしろ彼等の理論にとって不可欠な要素として評価していたことを、書簡研究によって明らかにしたことにあると述べている。しかし、急速な医療技術の進歩の中で、あらためてシェリングの医学思想に光が当たりつつある今日、むしろ「思弁性」の積極的な意義を見極めること、別言すればシェリングが医学を「学」として基礎づけようとしたことの、あるいは自然哲学による医学思想の全面的な見直しを図ろうとした彼の巨大な試みの積極的な意義を、現代というコンテクストにおいて見極めることこそが、今もっとも求められていることではないだろうか。ゲラベック氏のこの書はある意味では氏の結論づけを越えて、読者に「新しい医学哲学の幕開け」を予感させる知的刺激にあふれた力作である。

      

                                 (いたいこういちろう・京都大学大学院)


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