倫理学的観点からとらえたEBM
ウルバン・ヴィージング
(テュービンゲン大学医学部医療倫理学研究室)
澁谷理江、板井孝壱郎 共訳
以下の訳稿は、AERZTEBLATT
BADEN-WUERTTEMBERG, 54.Jahrgang 12/1999, Gentner Verlagに掲載されたテュービンゲン大学医学部医療倫理学研究室主任教授、Urban Wiesing 教授によるEthische Aspekte der
Evidence-Based Medicineの全訳である。おそらく、ドイツにおけるEBMに関する倫理学論文としては、日本ではじめて公表されるものである。
ここ数年、医療の世界では、EBMという言葉が席巻している感がある。もはや「EBMでなければ医療ではない」とでも言うような勢いである。EBM(evidence-based medicine)とは、1991年にカナダ、マクスター大学のG.H.Guyattが初めて使用し、その後、同大学のD.Sackett, P.Tugwellらを中心とするワーキング・グループによって、概念の検討、整理が進められ、現在では個々の臨床医のあやふやな経験や直感に頼らず、科学的に実証された根拠(evidence)に基づいて、最適な治療法を選択、実践するための方法だとされ、日本語では「科学的根拠に基づく医療」と訳されることが多い。しかし、EBMをめぐっては、さまざまな疑問点や問題点があることも事実である。例えば、このEBMにとって決定的とも言えるevidenceというタームひとつとってみても、まさにヴィージング教授が以下の論稿の中で指摘しているように、その意味するところをはじめ、「いったい何をエヴィデンスと考えるのか」という根本問題がつきまとう。もしもevidenceを、常に科学的に実証済みのデータとだけ解釈し、上記のように「科学的根拠」という訳語をあてると、狭い意味での医科学的な実証的データしか考慮されず、とりわけ生命倫理、医療倫理などで重要なファクターとなっている「患者の価値観」などの、必ずしも実証的だとは言い難い観点が軽視される傾向が生じてしまうかもしれない。それを避けるためには、evidenceというタームに解釈上の幅を持たせるようにし、「根拠に基づく医療」と訳すようにすべきかもしれない。
EBMの大きな特徴は、医療行為を実践するにあたって「利用可能な最善の科学的根拠を、迅速かつ最大限に活かすこと」にある。例えば今日、一般の内科医が、自分の専門とする領域の最新知識を常に入手していくためには、毎日少なくとも19本以上の医学論文を、忙しい日常診療の合間をぬって読みつづけなくてはならない(『医療技術評価推進検討会報告書』厚生省健康政策局研究開発振興課医療技術情報推進室、平成11年3月23日)と言われており、その情報量の膨大さから、最新の知識、科学的根拠となりうる情報の全てを網羅することは、ほとんど不可能だとされてきた。しかしながら、1990年代に入って高性能コンピュータが急速に医療現場にも普及し、世界各地の医学文献のデータベース化が進み、インターネットによってWeb上の医療情報に迅速にアクセスできるようになり、いわゆる医療界におけるIT革命が進むことによって、実現を可能にする条件が整ってきた。現時点では、医学情報のデータベース検索システムの代表例としては、米国国立医学図書館(NLM)が作成、管理している医学分野最大の文献データベース「MEDLINE」や、英国の国民保健サービス(National Health Service)の一環として計画が進められてきた「コクラン共同計画」によるデータベース等がある。
周知のように医療技術の進歩は目覚しく、昨日までは最新の治療法だったものが、今日にはもうすでに古びた手法になってしまうことは珍しいことではない。例えば子宮ガンの治療法ひとつとってみても、これまでは大方、患部を切除していたものでも、初期ガンであればPDTと呼ばれるレーザー療法で対処できるケースであるのに、担当の医師がPDTを知らない、であるとか、シスプラチンなどの抗ガン剤処方についても、その有効性を疑問視するデータがあらたに注目され、処方を控えるようになってきている情報を主治医が掴んでいない、といった事態が生じるならば、それは患者にとって大きな不利益であり、バイオエシックスの原則に照らしてみても当然あってはならない事態である。こうした観点からするならば、EBMは医療実践において、患者に利益をもたらし、医師が医療を行っていく上でも極めて有効な支援ツールとなりうると期待されることは確かである。
しかし一方で、こうしたプラス面への期待と同時に、例えば「EBMは、患者の『数値化』を促し、医療実践から人間性を奪ってしまうのではないか」、「EBMは、集団的に平均的な『誰にでも効果のある治療法』と、ひとりひとり個人差のある『その患者に有効な治療法』を混同し、標準化の枠に押し込めるものではないか」、あるいはまた「EBMは、無作為化比較試験(Randomized Controled Trial:RCT)と、それらを総合的な視点から分析するメタ・アナリシスによって検証されていない治療法を排除してしまい、個々の医師が、実際に目の前にいる患者を診ることで最適な治療法を模索する裁量権を侵害し、結果として患者に不利益をもたらしてしまうのではないか」などのさまざまな疑問や批判があることもまた、事実である。
以下に収録するヴィージング教授の論稿は、こうした疑問や批判に対し、倫理学的観点から問題点を整理しつつ、EBMを真に医療に活かすためには何が重要なのかについて、明快な回答を提示している点で、極めて重要な文献である。EBMを臨床現場で活用しようとしている医師はもちろん、現代の医科学的手法が抱えている哲学的・倫理学的問題点を分析しようと試みている多くの生命倫理、医療倫理研究者にも、欠かすことのできない必読文献である。
ヴィーズィング教授(Prof. Dr. med.
Dr.phil. Urban Wiesing)は、医学博士号取得の後、1994年に哲学博士号を取得、1998年より、テュービンゲン大学の医学部にて新たに設けられた医療倫理学研究室、主任教授を務めておられ、医療倫理、及び医学史に関する数多くの研究を公表されている。また、同時に、テュービンゲン大学医学部の倫理委員会の副委員長、そしてバーデン・ヴュルテンベルク州の医療行政に関わる職務にも携わっておられる。ヴィーズィング教授が本稿を日本で公表することを所望され、その旨をテュービンゲン大学に留学中の澁谷女史が、電子メールにて京都大学「情報倫理の構築」プロジェクトに所属する板井に伝えてくれたことにより、今回の翻訳掲載の運びとなった。
訳出にあたっては、渋谷女史(テュービンゲン大学哲学部博士課程在籍)がまず全体を翻訳し、その後、板井(京都大学文学研究科リサーチアソシエイト)が、医学用語を中心にキーワードの訳出に関する検討を加え、全体的な訳文の調整を行い、それらに関わる訳注を付ける、という作業行程を取った。
末筆ながら、貴重なご論稿をお寄せ下さったヴィージング教授に、この場をお借りして心から感謝申し上げるとともに、本資料集への日本語訳再録をご快諾くださったGentner Verlag社にも御礼申し上げる。最後に、今回の翻訳掲載にあたり、ドイツと日本との間で電子メールを使って訳稿のやり取りをするという制約の中で、日本側からの不躾な要求にも快くお応えくださり、多大な労苦を厭わず全体の翻訳を行ってくれた澁谷理江さんに、深く感謝申しあげる。
(板井 記)
要約
以下の論稿では、EBM(根拠に基づく医療)に対し、倫理学的観点から考察を加えようとするものである。まずはじめに、実践的学としての医学の学問的性格について確認し、その上で、EBMの積極的な可能性と、否定的な危険性について論じる。とりわけ、EBMの知見を個々の臨床ケースに適用する際、極めて慎重に行う必要があることを強調したい。
キーワード
EBM(Evidenzbasierte
Medizin)、実践的学(praktische Wissenschaft)、医療倫理(medizinische Ethik)
はじめに
英語圏においてevidence-based medicineと名づけられた方法は、過去数十年の医学における多くの進歩のうちで、科学的方法という観点から特に注目に値する。適確な訳語に欠けることから、ドイツにおいても(形容詞のみがドイツ語化されて)evidenzbasierte Medizinと呼ばれている。しかし、英語のevidenceとドイツ語のEvidenzとでは、意味が全く異なっている(訳註1)。そしてこの相違から、EBMの重要な特徴を知ることができる。すなわち、ドイツ語の示唆する「明白かつ当然、一目瞭然であること」ではなく、英語の含意する「方法的に確実で、実証済みであること」を、EBMは主眼としている。さらに、EBMは、理論の上で確実とされた知識よりもむしろ、医療行為の実践のなかで確実とされた知識を供給し活用しようとする。EBMが優先的に目指すのは、Knowing how ではなく、Knowing that である。この知識を得るためにEBMは、方法的に過誤なく行われた臨床研究に依拠し、総合的かつ分析的にそれらの検討を行う。
実践的学としての医学
EBMを倫理学的観点から考察するにあたって、はじめに医学の学(訳註2)としてのありかたについて確認しておきたい。医学を独自の学問分野として成り立たせているものは何であろうか。いかなる点において医学は他の学問分野から区別されるのか。この問いに答えるのは、それほど容易なことではない。なぜなら、診断においても治療においても、医学の用いる方法のほとんどすべては ─分子分析から解釈学的対話にいたるまで― 自然科学及び精神科学が用意して医学に与えてきたものだからである。医学の対象が人間であるという点からも、医学はその独自性を保つことはできない。心理学や教育学もまた、同様に人間をその中心に据えているからである。医学を医学たらしめているものは何なのか。あるいは、医学に一つの学問分野としての統一性を与えている本質的な特徴はどこにあるのか。現在においても医学を特徴づけているのは、結局はやはり医学に課されているその課題にある、と言えるだろう。すなわち、医学は「病んでいる人間の役に立つ」(註1)ことを目指している。医学を「一体に繋ぎ合わせ、医学としての総体にまとめあげているのは、学問以前の命法(vorwissenschaftlicher Imperativ)のみであり、医学に課されたその任務なのである」(註2)。そして、病んでいる人間の役に立つという医学の任務は、知識によってのみでなく、何よりも行為によって、すなわち個別事例における行為によって果たされるのである。医学は、行為について考察するだけではなく、行為を実現しなければならない。この点が、医学を他の自然科学から区別している。医学と異なり、自然科学(Naturwissenschaft)にとっては、その名の示すとおり、自然(Natur)に関する知識(Wissen)を創出する(schaffen)ことが重要なのである。したがって、行為と知識とのいずれが医学を構成しているのかと問うならば、ためらうことなく、行為がその答えとなる。「医療行為が医学の中心を築いている。行為のみが他のあらゆる側面を正当化できるのである。」(註3)医学が、自然科学の知識を利用して成果を上げていることは疑いもないが、学問分野としては医学は自然科学から区別されなければならない。自然科学によってもたらされる知識は、医学にとっては道具としての役割があるに過ぎない。かつてリヒャルト・コッホが、この点についてすでに次のように断言している。「知識は道具にすぎない。医学が知識なしに有益であるとすれば、医学は知識を放棄するであろう。医学にとって知識は必要不可欠であると、医学が認めたからこそ、医学は知識を利用しているのである。」(註4)
EBMの可能性と危険性
病んでいる人間の役に立つという医学の任務は、EBMを倫理学的観点から考察するにあたっての出発点となる。結論をやや先取りするならば、以下のように言うことになるだろう。つまり、なぜEBMを積極的に導入しようとするのかを納得させるに足る道徳的論拠も挙げられるが、しかし逆に、─コインの裏表のように─、同じ程度にまたEBMに対する慎重論を支持するに足る道徳的論拠もある、ということだ。正しく活用すれば、EBMは医学の課題を他の方法に比べてよりよく果たすことができるが、反対にもし、それを使えば誰もが手軽に料理が出来てしまうようなクッキング・ブックのようなものとして利用されてしまうならば、EBMは先の医学の課題を果たし得ないことになってしまう。この点について、以下において明らかにしたい。
病人を支援しようとすることが医師の任務であるのは、大前提である。しかし、この任務を全うしようと望むだけでは不十分である。それを望むだけならば、善良な市民の誰にでもできる。望まれる事態が実現される可能性が少しでも高まるためには、医師がそのための知識と能力をもっていなくてはならない。学問としての医学には、望まれる事態の実現可能性を高めるだけでなく、そうした実現可能性があるのかないのか、またその実現可能性はどの程度のものなのかを明確にしなくてはならない。EBMは、まさにそれをはっきりさせるためものなのである。EBMは、効果的だと思われる医療行為に関わって、すでに実証されている根拠(externe Evidenz)の中から最良のものを収集しようとする。そして、この点においてEBMは、一方では最も有効な治療法を、他方ではその治療法の有効性がどの程度のものなのか、という2つの情報を提供する。医師がこの点をよく理解した上で、EBMに基づいた治療行為を行なうならば、効果のない治療法の利用が避けられ、効果的な治療法の利用が促進されることになり、その結果、病苦の緩和に結びつく。そして、まさに苦痛を減少させることそのものが、一般的に言っても、そしてまたとりわけ医学においてこそ、今なお重要な道徳的課題なのである。今日、医療行為においては原則として患者の同意が不可欠であるが、患者の同意を得た上で、医師には、根拠に基づいた治療を行なう責任がある。倫理学的に言えば、有効性が裏付けられた治療を行うことによって医師は、医学にとって的確な原則、すなわち患者にとって有益なことを為し、有害なことを為すな、という道徳原則を最も良く守ることができるのだ(訳註3)。したがって、EBMは医療行為の道徳的基礎付けに貢献することはできないが、医師が責務を果たす上での、より効果的な支援となりうるということができる。
次に、EBMが誤解された場合に生ずる危険性について述べたい。EBMは、ある治療法の適用規準を確立しようとするのであるが、この規準の有効性は、ある集団についての研究によって方法的に検証されている。また、EBMの示す成果は常に、確率に基づくものであり、より効果的な治療法が発見されるまでの暫定的なものである。しかし、医療行為は常に個別事例における行為であり、個々の患者に向き合って行われるものである。また、行為というものは、科学的な仮説とは異なって不可逆的である以上、確率的あるいは暫定的に行為するということがあってはならない(註5)。したがって、EBMの示唆する規準を個別事例に適用するには、判断力、すなわち個別を普遍のもとに包摂する判断力が、媒介項として必要となる。医療技術上の規定を適用する際には、その規定が当の事例について有効であるかどうか、適用する者が決定しなければならない。この点を見過ごしてしまうと、EBMの危険性が生じてくる。
なぜ、EBMを適用する場合に判断力が必要となるのか。判断力についてカントは次のように指摘している(訳註4)。「判断力が個別を普遍のもとに包摂する際に拠り所となるような規則を、その度に判断力に対して与えることなどできない(なぜなら、このようにするならきりがないからである)。」(註6)EBMの示唆する規準を適用するための更なる規定をつくることはできない。なぜなら、この規定を適用するための規定がさらに必要となり、そしてこの規定を適用するための規定が、またさらに必要となるというようにきりがないからである。そうではなくて、判断力が必要なのである。これはしかし次のことを意味する。EBMが供給しようとする、すでに実証されている根拠を個別の事例に即して適用するためには、これらの根拠のうちには決して含まれえない能力が必要であり、そのうちの最も重要な能力が、個別を普遍のもとに包摂する判断力なのである。EBMの示唆する適用規準は、洞察力と慎重さをもって個別事例に適用されなければならない。
EBMに対する最も重要な倫理学的批判、より正確に述べるなら、曲解され誤用されたEBMに対する倫理学的批判の主眼は、こうした判断力の問題に十分注意が払われないかもしれないということに向けられる。個別事例に即さずにEBMを用いるならば、個別事例に応じた治療が行なわれないことになり、結果として苦痛をも増しかねない。EBMの積極的推進を図る学者は、この点を熟知しており、常にこの危険性への示唆を与えてきてはいる(註7)。それでもやはり、適用規準を無批判に用いてしまう傾向に、曲解されたEBMの危険性があるのだ。
EBMの方法論的選好(Methodische Praeferenzen der EBM)問題(訳註5)
さらには、EBMが方法上の便宜から優先して測定する事柄(was die EBM aufgrund methodischer Praeferenzen vorzugsweise
misst)と、患者にとって重要であり医療行為によって改善されるべき事柄との間に、齟齬が生じ得る。身体上に現れる疾病の方が客観化しやすく、それゆえに研究対象となりやすいため、EBMにおいては他の側面、とくに精神面が軽視される傾向がある。しかし、これはEBM全体に対する有効な批判とはいえず、むしろ測定が困難な領域についても、患者にとって意味を持つ領域であるならば、可能な限り確実な知識を提供するよう、研究者に訴えていると捉えるべきだろう。またEBMを利用する医師も、EBMの提示する研究結果が、方法上偏っている可能性を常に念頭に置く必要がある。
EBMに対するこうした批判があるにもかかわらず、合理的に考えて、EBMのコンセプトが優れていることに疑いの余地はない。そして、医学が実践的な学問である以上、EBMはそもそも医学において当然の方法である。ただし、慎重さ、とくに適用における慎重さが必要であるという点は、しっかりと基礎付けられなくてはならない。あるいはまた別の見地からいえば、すでに実証されている根拠に基づいて医療行為を行なうことは、医師と患者の関係にとって正しい方法であることは間違いないが、少なくともその行為を個別事例に基づいて根拠付けることが必要なのである。
EBMと医師の自由裁量権(訳註6)
EBMに対しては、医師の自由を制約するという批判がなされることがある。この批判は重要であり、ここで考慮される必要がある。しかし、これも間違って適用されたEBMに対するものであり、正しく適用されたEBMに対してではない。また、雑駁な誤解を避けるためにも、自由概念についてともすると忘れられがちな区別を明確にしておく必要がある。医師の自由を、われわれが通常の社会において考える自由、すなわち市民的自由と取り違えることは許されない。医師の自由とは、市民の自由とは全く異なるものであり、これとは慎重に区別されなければならないのである。医師の自由とは常に条件付きの自由である。すなわち患者の助けになるための自由であり、自由のための自由ではない。また、市民的自由のうちのある種のものが不可侵であるというような意味では、医師の自由は不可侵ではない。全く逆に、医師の自由は他者に奉仕するためにある。医師の自由によってこそ、医師は個別事例の偶然性や特殊性を考慮することができるのである。個人として個別事例と向き合うことを可能にするところに、医師の自由の目的があるのである。医師の自由とは患者の助けになるための自由である。これに対して、患者に害をもたらすような自由を医師に与えようとするならば、医師の本道を外れ、医学の本質を覆すことになる。医師には、患者に害をもたらす自由はないのである。
この意味において、EBMと医師の自由との関係を明らかにできる。形式的に医師の自由を制限しようがしまいが、EBMが患者によって有益であり、個別事例に対して慎重かつ適切に、そしてまた個々の患者に則して適用される限り、歓迎すべきことである。反対に、EBMによって医師の自由が制限されてしまい、医師が個別事例の特殊性に鑑みて適切に対処することができなくなるとすれば、患者にとっての不利益となり、またまさにこのゆえに歓迎すべきではない。
EBMと専門職(訳註7)
EBMが、細分化された医学の専門諸分野の枠組みを越えた倫理規範の形成を促進することは、疑いの余地がない。これまでは専門家によって規定されてこなかった予防、診断、治療の分野が、倫理規範によって規定されることになる。そしてこれらの倫理規範が罰則規定を伴ったものとなるのも、そう遠い先のことではないであろう。このような規範化のプロセスが、政治的また財政的事情からも到来するだろうことにも、言及しておかなければならない。その意味でEBMは、医学が細分化した専門諸分野の枠を越えて規範化のプロセスを形成し、担っていくための最後のチャンスといえるかもしれない。
正統医学と代替医療の対立を越えるEBM
EBMは、大学で教えられ学ばれる医学(Schulmedizin)と、いわゆる「代替医療」と呼ばれるさまざまな民間・伝統療法の諸潮流との間で長期に渡って行われてきた争いに、ひとつの評価基準を与えることができる(訳註8)。それによって、この争いが少なくとも客観的レベルで行われることになるだろう(この争いに決着をつけるというのが難しいとしても)。というのも、批判的方法的に有効な証拠は、大学で行われる医学についてと同様に、その他のさまざまな治療法についても(ある種の治療法については特別に精密な方法が考案される必要があるとしても)検証し得るのである。ある種の治療法については、その独自な方法ゆえに、あるいは治療を行なう人物と治療法とが密接に結びついているために、その効果を検証することは困難であるかもしれない。しかし、この点から導き出されるべきなのは、そうした治療法の有効性を調査しないで放置しておいてもよいとする理由付けではなく、より優れた研究方法を案出するための挑戦的姿勢である。患者の助けになることを望むだけでなく、できる限り助けになり得ること、そしてまた患者に対しても自分自身に対しても説明責任(Rechenschaft)を果たすこと、こうした道徳的責務(moralische
verpflichtung)が、どうして大学教育を受けた医師のみに限定されなければならないと言えるだろうか。治療者として他者と向き合うあらゆる人間が、こうした道徳的責務を負っていると言いうるのではないだろうか。
原註
註1)Koch, 1920, 59頁。
註2)Toellner, 1993, 29頁。
註3)Rager, 1991, 83頁。
註4)Koch, 1920, 220頁。
註5)Wieland,1983参照。
註6)カント『純粋理性批判』A202頁。『判断力批判』A、VII頁も参照のこと。
註7)Sackett et al. 1999。
文献
Richard Koch, Die aerztliche Diagnose. Beitrag zur Kenntnis des aerztlichen Denkens, zweite ueberarbeitete Auflage, Wiesbaden 1920.
Guenter Rager, Medizin als praktische Wissenschaft. Zur Grundlegung des aerztlichen Handelns, in: Arzt und Christ 37 (1991), S. 75-85.
David L. Sackett, W. Scott Richardson, William Rosenberg, R. Brian Haynes, Evidenzbasierte Medizin. Deutsche Ausgabe von Regina Kurz und Lutz Fritsche, Muenchen, Bern, Wien und New York 1999.
Richard Toellner, “Der Geist der Medizin ist leicht zu fassen” (J.W.v. Goethe) − Ueber den einheitsstiftenden Vorrang des Handelns in der Medizin, in: Herbert Mainusch und Richard Toellner (Hrsg.), Einheit der Wissenschaft, Opladen 1993, S. 21-36.
Wolfgang Wieland, Verbindlichkeit als wissenschaftstheoretisches Problem?, in: E. Deutsch, H. Kleinsorge und F. Scheler (Hrsg.), Verbindlichkeit der medizinisch-diagnotistischen und therapeutischen Aussage, Stuttgart und New York 1983, S. 35-42.
訳註
訳註1)Evidenzは「根拠」で統一した。
訳註2)Wissenschaftについては、基本的には「学」と訳し、必要に応じて「学問」としておいた。「科学」という訳語をあてたのは、冒頭のwissenschaftlich-methodischerと、Naturwissenschaftの場合だけに限定した。例えば本文で「実践的学としての医学」と訳した箇所も、原語ではeine praktische Wissenschaftであるので、現代医学の立場からすれば、すべからく医学とは医科学(medical science)に他ならないのだから、「実践的科学」と訳すべきだ、との意見もあるかとは思う。しかし、ここでは医学の学問としての本質的特性について論じられており、また本文中でも医学と自然科学との学問的性格の違いを強調していることからしても、19世紀以降の近代実験医学をベースとする実証主義的自然科学の意味合いが色濃い「科学」という訳語をあてるのは不適切だ考える。
訳註3)ここで論じられている「患者にとって有益なことを為し、有害なことを為すな、という道徳原則(das moralischen Prinzip: dem Patienten nutzen und nicht schaden)」とは、バイオエシックスでよく論じられる、いわゆる「四大原則:自律(autonomy)、正義・公正(justice)、仁恵・善行(beneficience)、無危害(non-maleficience)」のうちの後二者を指していると考えられる。
訳註4)哲学を専門としない読者のために、カントの判断力(Urteilskraft)について簡単に解説ておく。『純粋理性批判』においてカントは、普遍的なものを認識する能力である悟性(Verstand)と、普遍的なものによって特殊なものを規定する能力としての理性(Vernunft)の間に位置し、両者を媒介する機能を有する能力として判断力を位置付けている。しがたって判断力は、やや乱暴に表現することが許されるならば、特殊(個別)が普遍の一事例であるかどうかを判断する能力、特殊(個別)がどのように普遍と関係づけられるかを判断する能力であることになる。『判断力批判』では、特殊(個別)を普遍にどのように関係づけるかという適用の仕方に応じて、「規定的判断力(bestimmende Urteilskraft)」と「反省的判断力(reflektierende
Urteilskraft)」の2種類に区別され、前者は、あらかじめ普遍的なもの(規則・原理・法則など)が与えられている場合に、特殊(個別)的なものをその下に包摂する能力であり、後者は、特殊(個別)的なものだけが与えられている場合に、そこに普遍的なものを見いだす能力を指す。
訳註5)praeferenz
というのは、周知のようにラテン語の動詞praeferre(・・・よりも・・・を好む)に由来する外来語で、英語で直接対応する単語は、preference、日本語では「選好、あるものを他のものと比較して、より優先的に好むこと」を意味するため、ここでは「EBMの方法論的選好」とした。倫理学では「選好(preference)」という言葉はテクニカル・タームとして定着していることに鑑み、読みにくさは残るという問題はあるが、あえて表記のように訳出した。
訳註6)ここでいう 「医師の自由aerztliche Freiheit」とは、個々の医師が、自らの医者としての力量に応じて患者を診断し、治療方針を出した際に、たとえその治療方針が医療のスタンダードとは違う方針だとしても、その医師のこれまでの臨床経験と蓄積された医学知識に基づいた専門的知見(英語では expertiseという)として尊重するという「医師の裁量権(英語ではdiscretion)」のことを意味していると考えられる。そのため、日本語でよく使う「自由裁量」という言葉を採用して、「EBMと医師の自由裁量権」とした。この「EBMと医師の自由裁量権」という問題は、国際的にもEBMをめぐる大きな課題のひとつとなっており、理想的には、「裁量に基づく臨床判断(DBCD:
discretion-based clinical decision)」と「エヴィデンスに基づく臨床判断(EBCD:
evidence-based clinical decision)」とのバランスのとれた関係にあると言われている。
訳註7)Profession
は、周知のようにラテン語のprofess(神に誓いをたてる)に由来しており、古来、言葉の厳密な意味において「プロフェッショナル」の名に値する職業は、聖職者、弁護士、医師、の3つしかなかった。ここでは、こうした「極めて高度な専門性を有する職業」という意味合いを重視し、「EBMと専門職」と訳出した。
訳註8)「大学で教えられ学ばれる医学(Schulmedizin)」に関しては、医学史の標準的なテキストでは、これを「学校医学」とか、「講壇医学」と訳し、「教室という囲われた空間の中だけで教えられる医学」という意味合いを持たせているケースが多い。これが、否定的な意味で使われる場合には、「患者をないがしろにする、理論中心の医学」という批判的な意味で使われることもある。他方、alternativen Medizin の訳に関しては、確かに英語でも、alterenative という形容詞は、「二者択一の」とか、「あるものに取って替わる」という、既存のものを排除し、その場所を奪う、というやや攻撃的な意味があり、歴史的には、Shulmedizinの理論重視・患者軽視、という医学の形骸性を批判し、伝統的な治療法の復活を企図してきたさまざまな「民間・伝統療法」のことを指している。最近では、鍼灸治療や漢方、アロマテラピーなど、いわゆる近代西洋医学以外の「民間・伝統療法」に対して、WHOをはじめ、国際的にも再評価の動きが目覚しく、例えば日本の厚生労働省にあたる米国のNIHでは、1992年にOAC(Office of Alternative &Complementary Medicine:代替・相補医療調査室)を設置し、近代西洋医学以外の伝統医療の有効性を解明するための本格的研究を開始している。その後この調査室は独立した国立センターとなり、鍼灸をはじめとする東洋医学はもちろん、インド医学、チベット医学、ハーブ、アロマテラピー、さらには催眠療法、音楽療法なども研究対象としている。日本国内でも、1998年12月に「日本代替・相補・伝統医療連合会議」(JACT)が結成されている(URL http://www.health-station.com/jact/)。また英国のように、既存の近代西洋医学に「取って替わる」という攻撃的意味合いを嫌い、共存していく、あるいはお互いの弱点を補い合う、という趣旨から、alternative ではなく、complementary medicine(補完医療・相補医療)
と呼んでいるケースもあるが、ここでは一応の定訳となっている「代替医療」を採用した。
ただし、さまざまな民間・伝統医療もEBMによって検証される必要があるし、そのことによって、巷にはびこっている怪しげな、民間療法の名を借りた「まがい物の民間療法」が駆逐され、真に有効性のある民間・伝統医療が、選りすぐられていくことが可能になる(もちろん、漢方薬が良い例であるが、患者によって効き目にかなり個人差が出てしまう、という多くの民間・伝統医療に見られる「個体差優位」問題のゆえに、EBMによる検証そのものが極めて困難だ、という課題があるにしても)、というヴィージング教授の趣旨からすれば、「代替」という訳語は必ずしも的確であるとは言えないことをお断り申し上げておく。したがって「正統医学(=近代西洋医学、現代科学的医学)VS民間療法(=代替医療)」という対立図式で考えるのではなく、何が病める患者にとって真に有効なエヴィデンスを提供するのか、という基準で両者の関係を考えていくべきだというヴィージング教授の主張を汲み取って、小タイトルも「正統医学と代替医療の対立を越えるEBM」と訳出することとした。
以上