宮崎大学フロンティア科学実験総合センターシンポジウム

バイオリソースとしての
小型哺乳類の可能性

〜これからのナショナルバイオリソースプロジェクトを理解するために〜


!!参加費無料!!   日時:2006年11月6日(月) 13:00〜   !!参加費無料!!
場所:宮崎大学 医学部 総合研究棟1F


【学長挨拶】

宮崎大学フロンティア科学実験総合センターシンポジウム
「バイオリソースとしての小型哺乳類の可能性」開催にあたって

宮崎大学長 住吉昭信

 生命科学の世紀といわれる21世紀に入り、ライフサイエンスの主流は遺伝子やタンパクといったミクロの視点で生命現象を捉える研究を経て、それらの表現型として生物個体で起こる現象をマクロで考える生命機能解析研究へと移行しつつあります。ナショナルバイオリソースプロジェクト(NBRP)は、このような21世紀型の生命科学研究のための素材として「生き物」を体系的に整備することを目的とした国家プロジェクトです。
 私の専門である人体病理学の研究においても、試験管の中の現象で生命現象の総てが説明できるような学会報告も未だに多く見られます。しかし「動物実験」に関して述べる場合、「最終的には人体に即して」、しかも「用いた動物の解剖生理がどれだけヒトのそれと近似的であり、その生命現象から何を解明するのか、そしてヒトの生命現象に何処まで外挿しうるか」をしっかり認識して研究を行い、公表すべきであると言うのが私の研究持論です。従って実験病理の総ては、何時か人体病理の解明に回帰するものでないといけない、と私は主張し続けております。
 そういった意味でNBRPに選定されている生物種を見てみますと、哺乳動物であるマウス、ラット、ニホンサルの3種類は、我々がヒトの生命現象を解明するためのモデルとしての意味合いが特に強いリソースであるといえます。しかし、この3種類の素材を以てヒトを含む哺乳動物の生命科学研究を網羅することが不可能であることも事実であると思います。
 本シンポジウムは、次世代の哺乳動物バイオリソースの候補として、本学で維持する多様な齧歯類、およびウサギに焦点を絞り、既存のリソースと比較しながら、ヒトの生命現象解明のための新たなリソースとしての可能性について、さらにはもっと広い視点から生物多様性研究の素材としての可能性についても多角的に討議する事を目的に、宮崎大学研究戦略経費事業の一環として企画致しました。演者には、行政、研究それぞれの立場で主導的な役割を担う方々をお招きできたと自負しておりますので、これからのバイオリソースのあり方と大いなる可能性を考える上での情報の発信・交換と活発な討議の場としてご活用頂き、皆様にとりまして実り多いシンポジウムとなりますことを心から期待しております。



【講演要旨1】

ナショナルバイオリソースプロジェクトの現在、過去、未来

文部科学省 学術振興局 ライフサイエンス課
松尾泰樹

「ナショナルバイオリソースプロジェクト」は、新世紀重点研究創生プラン(RR2002)の一環として文部科学省の下で平成14年度より開始された。数ある実験動植物、各種生物の遺伝子材料等の中で、今後のライフサイエンス研究を推進するために特に重要なものについて、体系的に収集・保存・提供等を行う体制を強化整備することを目的としている。
 今世紀に入り、知をめぐる国際的な競争は一段と熾烈なものとなっており、同時に研究開発活動は拡大・高度化の一途をたどっている。特に研究活動を円滑に推進するためには、それを支える知的基盤の存在は不可欠である。本年3月に閣議決定された「第3期科学技術基本計画」の中でもライフサイエンスの研究分野は引き続き「重点4分野」のひとつに掲げられ、生物遺伝資源を含む知的基盤の整備の重要性が謳われた。
 本プロジェクトは、中核的拠点整備プログラムと情報センター整備プログラムから構成されており、前者は生物種等の対象ごとに拠点を整備するものであり、マウスや線虫の実験動物、シロイズナズナやイネ等の実験植物、大腸菌や酵母等の有用微生物のほかヒト培養細胞等、公募によって選ばれた24リソースを対象に大学や研究所等の関係協力機関が参画している。後者は、それらの中核機関等で整備されているリソースの所在情報や各リソースの遺伝情報等の集約・提供を行うセンター機能の役割を担っている。また、いくつかのリソースについては、質的な改善を図るために、ゲノムの解析を実施している。
 本プロジェクトは、推進委員会を設置し、進捗管理及び総括、基本方針を立案する。また、その成果や運営体制等についても評価・点検を行うために、関係の有識者による評価委員会を外部に組織して、推進委員会に対してその検討結果を勧告している。
 プロジェクトの大きな目標として、2010年までに世界最高水準のバイオリソースを整備するとしている。今年度で5年の最終年を迎えるが、バイオリソースはライフサイエンス研究の基礎・基盤であると位置づけられていることから、さらに事業を継続して行うために、中核的拠点となる機関を整備、充実させるとともにさらに新しい技術開発やゲノムの解析、新たな生物種の追加等、時代の要請に応えたバイオリソースの整備を行うための検討を行っている。



【講演要旨2】

バイオリソースとしての野生ネズミ類の維持と新しい実験動物の開発

M応用生物 (前東京農業大学農学部教授)
土屋公幸

 実験動物に基礎を置く実験医学は、医学研究において重要性はますます高まりつつあります。ゲノムプロジェクトの進展によりヒトを含む多くの動物で遺伝子配列が解明され、これからの動物実験は遺伝子レベルでの研究が重要であると考えられています。しかし、癌を含む難病などの解明には実験動物を用いた疾患モデル動物や遺伝子操作動物の開発、感染実験などが重要かつ不可欠の要素であることはいまさら言うまでもありません。しかし、従来使われてきたラットやマウスに代表される既知の実験動物では、感染不能な病原微生物が多いことが近年明らかにされてきています。その原因は、動物種によって外的あるいは内的要因に対する反応が著しく異なる点にあると考えられています。従って、実験動物の種類は多い程良いとも考えられ、それぞれの研究に適した種類を、実験動物・家畜・愛玩動物・野生動物などの中から選択あるいは開発しなければなりません。他方、実験動物は生体機能の原理を解明するための有用なモデル系としても位置づけられており、それぞれの研究目的に適した動物種が選択利用されつつあります。
 演者は東京農業大学では30種2500頭の野生齧歯類を飼育してきましたが、本年3月の定年により、野生マウス類は全て理化学研究所バイオリソースセンターに寄贈、小型ハムスター類は北海道大学大学院生命科学院生命システム科学コース動物染色体研究室に寄贈し、飼育を終了しました。現在は、宮崎大学フロンティア科学実験総合センター実験支援部門生物資源分野において、新しい実験動物を開発することや、生理・生態学的な研究の目的で齧歯目2亜目2科約20種の野生ネズミ類が飼育維持されていますが、これら外国産ネズミ類の多くは現行法の規制により今後の輸入はほとんど不可能になっています。それらは遺伝子資源としても貴重な種類であり、ホームページ上でも公開され(http://www.med.miyazaki-u.ac.jp/~Animalcenter/index.html)、学内はもとより国内や外国の研究者にも共同研究として無償で分与されています。それらの中には、既に実験動物としての有用性が明らかになった種類もいます。ヒトの動脈硬化症の促進・憎悪因子である高脂血症のヒト疾患モデルとして高脂血症の発現機構の研究や発症原因の究明に重要な役割を果たしている遺伝性高脂血症マウスは、文部科学省系統維持費を得て維持されています。ラットに近縁で雄に乳ガンを自然発症するミラルディアは、腸管に寄生する糞線虫の感染実験により、雌はマウスやラットと同様に一定期間後に線虫を排除するのに対して、雄では排除できない事が明らかにされました。同様な感染実験によりハムスター類は、マウスなどが粘液肥満細胞により腸管に寄生した糞線虫を排除するのに対し、杯細胞が機能していることが明らかにされました。河川盲目症フィラリア(オンコセルカ)の感染モデルとしてヨーロッパモリネズミが最適であることが明らかにされています。天然記念物のアマミトゲネズミは、染色体数が2n=25で性染色体がXO型であり、性の決定機構を研究する上で貴重な種類ですが、現在飼育下での繁殖を目指して飼育中です。これら以外にも、生体機能の比較研究や系統進化の研究に適している類縁関係の近い種類が多く集められているハムスター類(7種)、アカネズミ類(3種)など分子進化や遺伝学、免疫学、比較解剖学等に関連した研究に利用されて、多くの研究成果が得られています。



【講演要旨3】

医薬基盤研究所実験動物資源バンクで維持している各種齧歯類 
−有用性と繁殖関連技術−

(独)医薬基盤研究所 生物資源研究部 実験動物開発研究室
松田潤一郎

 医学研究や創薬研究には、疾患モデル動物をはじめとして多様で多種類の実験動物が、それぞれの目的に合わせて用いられている。とりわけゲノム科学の急速な進展に伴い、疾患関連遺伝子の個体レベルでの研究がますます重要となり、これらの研究が病態解明や治療法・治療薬開発に結びつくためには、適切な疾患モデル動物が開発され、利用される必要がある。そこで医薬基盤研究所では、新たな疾患モデル動物の開発と関連する発生工学などの技術開発を行うとともに、実験動物の収集、保存、維持、供給、情報発信などの実験動物研究資源バンク事業を行っている。維持動物種としては、マウスが中心であり、それ以外の齧歯類としてスナネズミ3系統、マストミス5系統、ハムスター1系統、モルモット数系統(維持は外部委託)の系統維持も行っている。
 実験動物としてのマウスは、(1)ゲノム情報など関連情報が充実、(2)遺伝的に制御された近交系など多数の系統が利用可能、(4)遺伝子改変が可能、(4)胚や精子の凍結保存が可能など、バイオリソースとしての基盤が整っており、もっともよく利用され、その重要性は言うまでもない。一方、マウス以外の齧歯類に目を向けると、ラットはかなりの程度の基盤が整っているが、その他の動物種ではほとんど未整備である。しかしながら、実際にはそれぞれの種の特徴を生かして、疾患研究をはじめとしてさまざまな生物学研究に用いられている。例えばスナネズミでは脳底動脈輪の形成不全という解剖学的特徴を利用した実験的な脳梗塞や各種微生物感染症(ピロリ菌定着モデルなど)の研究、さらにはてんかんの研究などに利用されており、病気の理解に貢献してきた。実験動物としての齧歯類では、マウスとラットが圧倒的に重要であるが、その他の齧歯類もそのユニークな特性、有用性が生かされれば、多様で貴重なバイオリソースとして意義が出てくるものと思われる。
本シンポジウムでは、国立予防衛生研究所および国立感染症研究所で長年にわたり系統維持し、わたしども医薬基盤研究所実験動物開発研究室へ引き継がれてきた各種齧歯類、すなわちスナネズミ、マストミス、ハムスター、モルモットなどのバイオリソースとしての有用性・可能性と、繁殖関連技術、すなわち過排卵、体外受精、胚移植、胚・精子の凍結保存などについて開発状況を概説し、話題提供としたい。



【講演要旨4】

これまでに作成した遺伝子組換えウサギの系統とその保存、
およびトランスレーショナルリサーチへの展開

山梨大学大学院医学工学総合研究部(医学部)・分子病理学講座
範 江林
佐賀大学総合分析実験センター
森本正敏
神戸大学動物実験施設
塩見雅志

 ポストゲノム時代を迎えた現在、いまや国民病となった生活習慣病のような多因子疾患に関連する多くの遺伝子が同定されつつあるが、最終的には個々の遺伝子の体内での生理機能並びに病理学的意義、環境との相互作用の解明が疾患の根治や予防において今の医学に課せられた大きな課題である。そのために、細胞レベルでの研究だけではなく、より人間の病態に近い適切な遺伝子改変実験動物モデルの使用が病因関連遺伝子の解析や治療法の開発には不可欠である。我々は10年前から世界に先駆けて、動脈硬化の発生機序の解明及び治療法の開発に向けて、ヒト遺伝子の導入による様々なウサギ病態モデルの開発と応用への試みを行ってきた。マウスよりもウサギを利用する主な理由は、(1)ウサギの脂質代謝の特徴はヒト(LDLに富む)に近い、(2)動脈硬化が発生しやすい、(3)動脈硬化病変(早期病変から複合病変まで)がヒトの病変に類似するC診断や治療法などの開発に応用(トランスレーショナルリサーチ)できる、という点が挙げられる。また、ヒト疾患モデルとしてのマウスの応用は研究の限界があり、マウスでは遺伝子の制御によるヒト病態の表現型を再現できないことが数多く報告されている。
 我々は、現在までに動脈硬化の主要危険因子である高脂血症、糖尿病、メタボリックシンドロームなどの関連遺伝子をターゲットとし、基礎研究から臨床応用研究まで様々な手法を用いて研究を進めてきた。その中で、動脈硬化の独立危険因子であるLp(a)を始め、食事後高脂血症に関する酵素であるリポ蛋白リパーゼや、糖尿病やインスリン抵抗性に関連するアポ蛋白AII、肥満、メタボリックシンドロームの候補遺伝子である細胞内グルココルチコイドを活性化する変換酵素(HSD1)、糖尿病腎症や網膜症に関係する血管増殖因子(VEGF)、冠状動脈プラークの破裂や大動脈瘤の形成にも関わっているマクロファージエラスターゼ(MMP-12)、糖代謝や脂質代謝を制御する核内受容体であるPPAR-gなどの遺伝子改変ウサギモデルの開発に成功し、動脈硬化の発生及び進展におけるそれぞれの役割の解明を行ってきた。さらに我々は動脈硬化の新規危険因子として注目を浴びているC反応性蛋白(CRP)の生理機能及び心筋梗塞、脳梗塞などとの関連を解析できるツールとして、新たなCRPトランスジェニック・ウサギの開発を行っており、世界から注目されている。
 本シンポジウムではこれまでに我々の開発した遺伝子改変ウサギの有用性をオーバービューし、トランスレーショナルリサーチの実例として、高脂血症ウサギモデルを用いてドイツSchering AG社と共同で推進しているMRIによる動脈硬化の診断造影剤の開発についても紹介したい。また、これまでに開発した遺伝子改変ウサギの繁殖・保存・応用におけるわが国の現状とこれらのウサギモデルをBaseとした国際的競争力のある研究拠点成立の可能性について論じたい。



【講演要旨5】

WHHLMIウサギと関連する系統
−高脂血症,動脈硬化,心筋梗塞のモデル動物−

神戸大学動物実験施設
塩見雅志

【背景と目的】マウスにヒトの遺伝子を導入することによって「ヒト型マウス」を作出できると期待されていた。しかし、脂質代謝や動脈硬化に関する遺伝子組換えマウスの病態はヒトと大きく異なり、ウサギモデルの病態がヒトに近似している。心筋梗塞や脳梗塞の原因となる高脂血症は30歳以上の日本人の30%以上と推定されており、ウサギ病態モデルの繁殖供給体制の確立がこの分野の研究の発展にきわめて重要である。
【WHHLMIウサギの開発と特性】WHHLMIウサギは、標準飼料の制限給餌においても低比重リポ蛋白が血中で増加(高脂血症)し、冠動脈(心臓の動脈)に重度の動脈硬化が発生し、心筋梗塞を自然発症する。本ウサギは、渡辺によって開発されたWHHLウサギ(1985年のノーベル賞(生理学・医学部門)受賞研究に大きく貢献、受精卵保存)を遺伝改良することによって作出された。近年、メタボリックシンドローム類似所見(内臓脂肪の蓄積やインスリン抵抗性等)やヒトの頻尿に類似した所見も報告されている。
【貢献できる研究分野】WHHLMIウサギは、脂質代謝異常、動脈硬化、心筋梗塞、頻尿、腱黄色腫等の病態や発生機序の解明等に使用されており、動脈硬化や心疾患の画像診断、再生医療や遺伝子治療を含む高脂血症および高脂血症に由来する疾患(頻尿、感音性難聴、腱黄色腫等を含む)の治療法の開発に貢献できると期待されている。
【WHHL/WHHLMIウサギに由来するウサギモデル】山形大学では、WHHLウサギを正常ウサギと交配することによって食後高脂血症を示すウサギを開発し、このウサギがメタボリックシンドローム様の病態を示すと報告している。また、範教授(筑波大→山梨大)のグループは彼らが開発した複数の遺伝子組換えウサギとWHHL/WHHLMIウサギを交配することによって、脂質代謝や動脈硬化に関する遺伝子の役割を解明している。
【マウス・ラットのモデルと異なる点】マウスやラットでは脂質代謝を制御する重要な複数の酵素や蛋白の発現/発現場所がヒトと大きく異なるため、遺伝子を組換えてもヒトとの隔たりを克服できず、脂質代謝異状によって生ずる動脈硬化病変もヒトと異なる。一方ウサギでは、脂質代謝に関する重要な酵素や蛋白がヒトに極めて類似しており、動脈硬化病変もヒトに類似している。また、世界で2000万人以上が服用しているコレステロール合成阻害剤(スタチン)はマウスやラットでは効果を示さないが、ウサギでは血清コレステロールを低下させるのみならず、スタチンが心筋梗塞を抑制するメカニズムの解明にWHHL/WHHLMIウサギが貢献してきた。このように、脂質代謝や動脈硬化の研究にはウサギのモデル動物がきわめて有用である。
【ウサギバイオリソースの必要性】WHHLMIウサギの潜在的な需要は国内だけでも200-400匹/年と推定でき、1大学で対応することは困難である。バイオリソースとして繁殖供給体制を整えることによって、高脂血症に由来する疾患の病態の解明、画像診断、再生医療や遺伝子治療を含む治療法の開発等に貢献できると期待できる。



【講演要旨6】

ナショナルバイオリソースプロジェクトの成果
−ラット・ニホンザル・メダカ−

文部科学省学術振興局ライフサイエンス課
野島久美恵

 ライフサイエンス研究の基礎・基盤であり、研究を推進するために特に重要な研究材料について、体系的に収集・保存・提供等を行う体制を強化・整備するために、「ナショナルバイオリソースプロジェクト」として、文部科学省は、中核的拠点整備プログラムと情報センター整備プログラムを平成14年より開始した。
 中核拠点プログラムは、生物種等の対象ごとに拠点を整備するもので、実験動物、実験植物、有用微生物等24のリソースを対象に中核機関を中心として関係協力機関が複数参画してそれぞれの事業を行っている。
 その中で、実験動物は、マウス、ラット、ニホンザル、アフリカツメガエル、メダカ、カイコ、ゼブラフィッシュ、ショウジョウバエ、線虫と9種類のリソースを対象に拠点整備を行ってきた。本シンポジウムでは、代表的な例として、ラット、ニホンザル、メダカについて、その事業について紹介する。



【講演要旨7】

生きものとしてのバイオリソース

理化学研究所特任顧問
森脇和郎

ポストゲノム時代に向けて:
 ヒトをはじめ主な実験生物の全ゲノム塩基配列が解析されたことによって、人類はヒト自身を含めた「生きもの」の設計図を手に入れたと云われている。しかし、「生き物」の構造と機能における著しい複雑性のために、ゲノム遺伝子の側だけからその実体を解明することは難しく、個体レベルの表現型を手がかりに解析的研究を行う必要性が広く認識されるに至った。我々自身がヒトであるという理由で、「生き物」としてのヒトの機能・構造の解明がライフサイエンス研究の大きな目標となっている。しかし、ヒトを実験的研究の対象とするには自明の制約があり、モデルとして実験動物は不可欠である。ヒトと同じ哺乳動物がヒトのモデルとして適しているであろうということは一世紀前から考えられ、マウス・ラットが主要な実験動物として使用されて来た。

実験用マウスの位置:
 特にマウスは、小型で飼育が容易である、世代交代が早い等の理由から実験医学分野で重用されてきたが、ゲノム時代に入り、ヒトと同様全ゲノム塩基配列が解析され、遺伝子DNAのレベルでもヒトと高い相同性を持つことが示されて以来、そのモデルとしての位置は一段と高くなった。更に、遺伝子操作・胚操作技術の発達によりES細胞を使って特定の遺伝子の破壊、導入が自由に出来るようになったことや、胚や配偶子の凍結保存技術の発達も、リソースとしてのマウスの価値を高めた。さらに最近、欧米先進諸国においては、マウスの全ての遺伝子の各々をノックアウトして、「生き物」の機能・構造の機構解明のための系統群を網羅的に開発しようと云うプロジェクトまで動き出した。ヒトのモデルとしてのマウスのゲノム機能を徹底的に解析しようと云うわけである。

実験用マウスに残された問題:
 このように挙げてくると、マウスは現在のライフサイエンス研究にとって必要且つ十分のリソースではないかと考えられるかもしれないが、残された問題もある。現在世界中で使っている実験用マウス系統は一世紀ほど前に医学研究者達が愛玩用マウスを実験動物として使い始めた事に始まる。それらの愛玩用マウスは東洋でも西洋でも恐らく数百年かけて野生マウスから育成されたものらしい。元々野生の環境に棲んでいたものが、人工的な飼育環境で繁殖し、おとなしい性質をもつように選抜され、さらに実験動物として好発ガン性その他の実験目的によって選抜された。この間に「生きもの」として備わっているべき遺伝子のいくつかを欠損したマウスになったのではないか? 我々が日本産野生マウスから育成した系統はこのような選抜をほとんど受けていない筈であり、強い遺伝的発癌抵抗性や交配における選択性を示す。実験用マウスと野生マウスのどちらが「生きもの」としてのヒトの適切なモデルなのかという問題は残っている。

生命機能モデルとしての特性
 自然界の生物全てが、各々の種の成立以来、長い歳月の間、自己のゲノムにおける変異と外部からの環境要因による選抜を経て今日に至っている筈であり、その総和として、個々の種には「生き物」として独自の機能・構造が存在している。ヒトもその一員であり、その複雑な生命機能を一種類で完全にミミックするモデル動物がいるとは思われない。マウス以外の動物のもつ特性がヒトのモデルに適するという場合もあり得る。外科領域の方からブタの皮膚がヒトの皮膚に似ているという話を聞いたことがあるが、各生物種が持っている種々の生命機能遺伝子群には進化的に中立でないコンプレックスが包含されている可能性を示唆する本質的な問題かもしれない。
また、大腸菌におけるDNA複製や修復の機構、線虫における細胞系譜構築、ショウジョウバエのホメオボックス等のように、ヒトとは進化的にかなり離れた生物で得られた科学的知見であっても、それが基本的に重要な生命機能に関するものであれば、ヒト極めて重要な「ヒトのモデル」となることがある。

「生物多様性科学」:
 バイオリソースとして高度に開発・整備されたマウスに対して、ほかのリソースの存在意義をどう考えるのかと言うのが本シンポジウムの課題であるが、マウス・ラット以外の齧歯類を先導的ライフサイエンス研究のためのモデルとして押出すには、独自性の高い特性を持ち、且つ高度の品質を持つリソースであることが望まれるし、遺伝子地図やゲノム特性の整備も必要であろう。
 しかし、広くサイエンスとして考えれば、どのような生物種であっても、その種が生き物としてどのような仕組みを持って自然界で生きているか、進化系統学的にどのような位置にあるのかをそれぞれの種のゲノム情報と共に明らかにすることは、ヒトの健康という人間社会に身近な問題を踏まえたライフサイエンスとは別に、自然界の生きものを認識する「生物多様性科学」とでもいうべきライフサイエンスのジャンルとして、現在投入されている研究資金の多寡は別として、地域性を踏まえた我が国の独自性に富む基盤科学として重要な意義をもつ。




<<同時開催ワークショップ(予定)>>

『特殊齧歯類の取り扱い』:講師 元宮崎医大動物実験施設 土屋征子