ゲーテ時代の医学思想

─シェリングの自然哲学的医学を中心に─

                                                    

板井孝一郎




近代西洋医学は病人から「病気」を抜き出し、そこに実験室的操作を加えて治療することを基本的方法としてきた。こうしたいわば「病人をみるな、病気をみよ」という方法は、一九世紀半ばに台頭しつつあった近代実験医学と歩調を合わせ、緻密な理論と高度な医療技術を生み出し、近代医学の「科学」としての発展に貢献してきた。

しかし、近年になってこうした「科学的データ」と医療技術を偏重した近代西洋医学に対して、さまざまな批判が現われてきていることもまた、否みがたい事実である。一九七〇年代にアメリカを中心に誕生したバイオエシックス(生命倫理・医療倫理)や医療人類学という新しい学問ジャンルの登場も、そうした動向を背景としている。また、新しい学問の誕生という形ばかりでなく、歴史的には近代実験医学の確立によってもはや「時代遅れ」となったとされているはずの東洋医学をはじめとするさまざまな伝統医療に対する注目や、再評価の動きさえ国際的に高まってきている(1)。

こうした動向の背後には、それぞれの違いをひとまず置くとするならば、近代西洋医学がおおむね人体を機械とみなし、故障した部品はとりかえればよいとする生命観に基づいていることに対するアンチ・テーゼが含まれている。大まかに見るなら、近代西洋医学のパラダイムは「人間機械論」をベースとし、疾病に対するスタンスは「特定病因論」であるとされ、こうした人体観に基づく医療行為とは、罹病している身体を生物学的、生理学的に「修理する」ということになる。

他方、東洋医学は、人体をホリスティック(全体論的)に観察し、人体をめぐるある種のエネルギーである「気」のバランスの乱れを診断し、その「気」の均衡を回復させることで疾病に対応しようとする。そのために、東洋医学のパラダイムは、西洋医学が機械論的であるのに対して、有機体論的であると特徴づけられたりもする。

しかし、西洋医学思想のパラダイムがすべて機械論的であって、他方、東洋医学は有機的な生命現象をまさに「有機的に」把握するのだとみなし、これからは東洋医学が西洋医学に取ってかわるのだとするような考え方は短絡的すぎるだけではない。近代西洋医学の客観主義やデータ主義の「科学性」を否定するあまりに、かえって「生気論」の迷宮に迷い込んでしまう危険もある。西洋医学思想のパラダイムがすべて機械論的な発想に支配されているという見方に立つことは、一九世紀半ばにベルナールの実験医学が成功をおさめて以降の出来事しか見ておらず、実際には一世紀前の一八世紀に、きわめて東洋的なパラダイムに近い有機体的医学思想が存在していたことを完全に見落としてしまうことになる。

特にゲーテの医学観には、科学的データに基づく分析と計算には還元できない生体内の自然治癒力に対する視座が、確かに存在している。自然哲学的医学を構想していた一八〇〇年前後のシェリングとゲーテとの学問的交流の足跡のなかには、こうした医学思想の問題が存在していたことも見落とされてはならない。

それゆえに、近代西洋医学を否定するあまりに、その「代替」として東洋的パラダイムにのみ「助けを求める」前に、われわれはゲーテ時代の医学思想に立ち戻ってみる必要がある。

1. 「ゲーテ時代」の医学思想

 「ゲーテ時代」といってもその定義は多様である。ここでは『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の出版年、すなわち一七九五年から、彼の没年一八三二年前後までとしたい。一般にゲーテ時代の医学思想として注目されるドイツ・ロマン派医学は、一八〇〇年から一八五〇年前後までを指すことが多いが、拙論ではその立場をとらない。その理由は以下の三つである。

 まず第一に、一七九五年にこだわる理由は、この期間こそまさに、一八〇〇年以降にシェリングの自然哲学的医学サークルを中心としたドイツ・ロマン派医学が開花する直前にあたり、「興奮性」という概念を第一原理とするブラウン医学説の評価をめぐって、プファフ(C.H.Pfaff)、レシュラウプ(A.Reschlaub)、そしてシェリングの間で学問的交流がはかられた重大な「準備期間」であったからである。

第二に、一八三二年前後に注目するのは、この頃にドイツにおける近代実験生理学の父と称されるヨハネス・ミュラー(Johannes Mueller)が、『人体生理学要綱』(一八三三年〜四〇年)の出版を開始し、ドイツに蔓延していたロマン派医学の「思弁性」を駆逐した時期にあたるからである。

そして第三に、一八五〇年までを指す立場では、いわゆるシェリングを中心とする「自然哲学派」(Naturphilosophische Schule)以外のロマン派医学の流派、特にメスマー(F. A.Mesmer)の「メスメリズム派」(Mesmerismus)やシェーンライン(J.L.Schヨnlein)の「自然誌学派」(Naturhistorische Schule)、ハーネマン(C.F.S.Hahnemann)の「ホメオパティー」(Homoeopathie)などの影響も視野に入れているが、本稿ではそれらの中でも最も影響力の大きかった(またそれだけに衰退の速度も高かった)「自然哲学派」に焦点を絞るためである(2)。

 しかし、それにしてもシェリングの自然哲学的医学に端を発するドイツ・ロマン派医学に対する一般医学史での評価は手厳しい。ほとんどの医学史書をひもとけば、必ずといってよいほどロマン派医学は医学の「科学」としての発展を妨げた悪役として扱われ、シェリングはその筆頭として神秘主義的な「生気論」者の親玉として批判の矢表に立たされている。いわく「現実の観察が貧弱で・・・時には妖怪学にも堕する」「誇大妄想患者の業績」であり、「深遠ではあるが必ずしも透明とはいえない言語に支えられ」、「科学の歪みのない発達を阻害する契機ともなった」といった具合である(3)。

けれども先にもすでに触れたように、近代実験医学の隆盛に支えられてその医療技術を進歩させてきた結果、現代医学は脳死臓器移植や受精卵操作による生殖技術など、予想をはるかに越えた事態に直面するにいたった。こうしたなかで、たとえばヴェルナー・ゲラベック氏の試み(4)に代表されるように、ドイツでもシェリングをはじめとするドイツ・ロマン派医学に対する注目は年々高まりつつある。こうした事態はいったい何を意味しているのだろうか。

2. シェリング医学思想に課せられた医学史的課題

 乱暴に表現することが許されるならば、一八〇〇年前後当時のドイツ医学界は機械論と生気論の間をさまよっていた。そのうえ、通俗化されたブラウン主義的医療が信頼を損なうことによって、当時のドイツ医学はもはや「学としての基礎づけ」を喪失していた。そうした状況の中でレシュラウプの試みに代表されるように「新しい医学の学問体系」が模索されていた時代において、シェリングの自然哲学に基づいた医学・生理学研究は、トールナー(Richard Toellner)の言葉を借りるなら、「混迷した事態を収集する解放の医学哲学」(5)だった。そのために、後にドイツにおける近代実験生理学の父と呼ばれることになるヨハネス・ミュラーも、かつては一時「シェリング・ウィルスに感染した」ことがあったほど、影響力は大きかった。ミュラーは、シェリングの医学思想ともきわめて関連の深い比較生理学者キールマイヤー(C.F.Kielmeyer)(6)を称え、次のように述べている。

 「比較生理学の自由な精神的使命とは、動物をバラバラに解剖することではなく、創造的な自然を生きたプロセスにおいて産出的に把握しようと追求することにある。比較生理学とは、自然の永遠なるプロセスを手本にする知的直観において、自然を精神的な仕方で解剖するのである。ドイツ人は、キールマイヤーは比較生理学の内面的側面をはじめて認知していた人物であったと誇らしげに言うであろう」(7)。

 では、「知的直観」に基づくシェリングの医学思想は何をその課題としていたのか。この問いに答えるためには、彼に先立つ医学史を少しばかり振り返る必要がある。

 一七世紀ヨーロッパでは、ウィリアム・ハーヴェイ(William Harvey)による血液循環説の誕生や、北イタリアのパディア大学の解剖学外科学の教授ガスパーレ・アセリ(Gaspare Aselli)によるリンパ管の発見、またオランダのスワンメルダム(Jan Swammerdam)やイタリアのマルピギー(Marcello Malpighi)らによる顕微鏡の発明を受けて、人体の生理現象を物理的に説明できるとする考えが大勢を占めつつあった。とりわけ筋肉繊維の緊張と弛緩、体液の濃さと薄さなどの研究が主要な課題とされ、これらの課題を中心とした学派は「物理医学派」(iatrophysicists)と呼ばれた。特にイタリアのアルフォンソ・ボレッリ(Alfonso Borelli)が物理医学派の代表的人物とされるが、ボレッリの主著『動物の運動について』は、骨格筋による運動や心臓などの内臓の働きを、数学、物理学の立場から論じているもので、神経の働きについては、物質的な液体が物理学の法則にしたがって神経のなかを流れ、その作用を末端器官に伝達するという神経液流動説を提唱していた。呼吸については、心臓の熱がそれによって冷やされるという従来の説を退け、持続的な細かい振動が血液に与えられるとした。空気中のなんらかの物質が血液と結びつくという説は、後述する「化学医学派」(iatrochemists)の勝利であると言われる。

 化学医学派は、一六世紀のパラケルススの流れをくむもので、一七世紀にはヴァン・ヘルモント(Jan Baptiste van Helmont)が代表的人物とされる。前述したように化学医学派は、血液循環の原因を空気中のある特殊な物質の結合に求めた。イギリスの医師ジョン・メイヨウ(John Mayow)は、生命に必要な空気中の物質を「火の空気」と呼んだものの、燃焼をおこすものとの関係がまだつかめずにいた。「火の空気」、すなわち酸素がシェーレ(Karl Wilhelm Scheele)やプリーストリ(Joseph Priestley)によって発見されるのはその一世紀後のことであり、それはちょうどシェリングたちが自然哲学的医学を立ち上げようとしていた時期に重なっていた。

 ガレノスの体液説に基づく生理学が崩壊して以来、古い生気論は消え去っていたが、ハーヴェイの血液循環説以降の新しい化学の研究と結び付いた生気論が登場するにいたった。それは、ドイツの化学者にして医師であるシュタール(Georg Ernst Stahl)のもとに誕生した。彼はベッヒャー(Johann Joachim Becher)の「燃える土」(terra pinguis)を継承し、それを「フロギストン」(Phlogiston)と再命名した。これは、物質が燃焼するときに関係すると考えられていた仮定上の物質である。シュタールによるフロギストン生気論の提唱はアリストテレス的アニマをモデルにしていると言われ、デカルトに対する反論として生まれた。有機体に特有な生命現象には、物理法則にも、化学法則にも支配されない独自の原理があると考え、ある種の「生命力」のようなものを想定する立場が生気論である。

 現代医学の立場からすると、この生気論の立場ほど非科学的で支持しがたい理論はない。そして、シェリングの自然哲学的医学もまたこの立場に立つものとみなされてきた。しかし、実はそれは誤りである。シェリングの自然哲学的医学に端を発するドイツ・ロマン派医学の試みを、人体の有機的生命諸現象を物理・化学法則に還元しようとする医学の機械論化に対する「ロマン主義的反動」としてのみ捉えるわけにはいかない。シェリングの医学・生理学研究は、それまでの物理医学派や化学医学派の成果を否定するのでもなければ、ある種の神秘的エネルギーのような「生命力」に逃げ込み、生気論を復古しようとするのでもなかった。結論を先取りするならば、シェリングの自然哲学的医学とは、有機体の生命現象をできるかぎり物理・化学法則に依拠したものとして把握しようと努めながらも、それらに還元することのできない生命の有機的諸現象を、生気論とは異なった仕方で捉えようとするものだった。

 次節ではこの点を、シェリングの自然哲学的医学にとってのみならず、その他のゲーテ時代の医学思想にとってもきわめて重要な「刺激に対する有機体の反応」をめぐるいくつかのキー・コンセンプトに焦点を絞って明らかにしていくこととする。

3. 有機体はなぜ刺激に対して反応するのか

 初期シェリングの著作において、感受性(Sensibilit舩) と刺激反応性(Irritabilit舩)という概念が最初に明確に登場するのは『イデーン(Ideen)』(一七九七年)であると言われている。そのなかでシェリングは、次のように述べている。

 「私は、一般に生命というものが自由な運動と考えられていることに疑問を感じている。というのも、動物的諸器官の能力、すなわち感受性と刺激反応性等は、あるインパルス的な原理(ein impulsives Prinzip) を前提にしているからだ・・・」。「あらゆる諸器官の能力というものは、単にそれだけでは生命を説明するには十分ではない。なるほど繊維や筋肉などの組成を考えることはできるかもしれないし、(たとえば筋肉の場合、電気的・金属的刺激による有機的身体の壊死等といった)外部刺激によって自由な運動が引き起こされるのは確かだし・・・、こうしたあらゆる運動が生命に作用しているのだ、と人は答えるかもしれない。けれどもそこには、われわれが物質的なものでは説明することのできない、ある高次の原理がある。ある原理、それはあらゆる個々の運動を秩序だて、統御し、さらに相互に関連づけ、諸性質の全体を産出し、また再産出するものなのである」(I,372)。

 この一文を表面的に読むと、あたかも「物質的諸連関」からは説明できない特別な原理が生命に求められようとしているかのようであり、これは「生気論者シェリング」を追認するもののように見える。しかしそれは誤りである。当時のドイツ医学界を一時席巻していたエディンバラ出身の医師ジョン・ブラウン(John Brown)の「興奮性」概念に対するシェリングの批判を、当時の生理学者プファフからの影響関係を視野に入れながら詳細に検討してみれば、それは明らかとなるだろう(8)。

ここで注目したいのは、シェリングが一七九七年九月四日付けの両親に宛てた手紙である。シェリングは、彼の実弟にあたる医学生のカールに言及しながら、「私は今、動物的生命のある理論を学んでいます」と述べている。さらに、一七九八年五月七日付けの手紙では、シェリングは数回にわたってプファフの『動物的電気性と被刺激性について(Ueber thierische Elektrizitaet und Reizbarkeit)』(一七九五年)と『ブラウンの治療体系(John Browns System der Heilkunde)』(一七九六年)に言及しているが、この二つの著作とシェリングとの影響関係に着眼したいと思う。

 さて、シェリングを中心とする自然哲学的医学サークルが「新しい医学体系」の模索を試みるにあたって、論争の中心点をなしたのは「外的環境から与えられるさまざまな刺激に対する有機体の反応はなぜ生じるのか」という問題であった。その際のキー・コンセプトは、「興奮性」、「感受性」、「刺激反応性」、「被刺激性」といった筋肉の収縮と神経系の生理学的研究に関する諸概念である。

 医学・生理学史において「感受性」や「刺激反応性」という概念をはじめて生理学的説明に導入したのは、ケンブリッジ大学のグリッソン(Francis Glisson)であった。彼はこの特性を「動物繊維、筋肉繊維、およびその他の繊維」、つまりあらゆる有機物質に固有のものであるとした。彼にとって刺激反応性とは、生命の第一原因であったが、このとき以来、感受性、刺激反応性、収縮性という三つの言葉が時には峻別され、時には混同されるというさまざまな誤解の歴史が始ることになった。

ライプニッツ哲学をもとに生気論を創始したといわれるボルデューは、グリッソンの刺激反応性をも包括するものとして「一般感覚性」という特殊概念を提唱した。クロード・ベルナール(Claude Bernard)によれば、これこそが、最大の混乱のきっかけであり、原因であった。ボルデューは、グリッソンの刺激反応性のみならず、後に見るブラウンの興奮性概念をもこのなかに取りこんでしまった(9)。

ボルデューの試みの最大の問題は、キュヴィエ(George Cuvier)が言うように、「動物が感覚性の存在を感知しないときでさえも、運動にともなう神経の働きすべて」を感覚性と呼ぼうとした点にあった。

 この混乱に一定の秩序をもたらしたのが、ハラー(Albrecht von Haller)である。彼はこの問題を次のように整理した。@、今日では弾力性と呼ばれているものは収縮性(Contractilitaet)のことである。A、刺激反応性とは筋肉の働きである。B、感受性とは神経の働きである。

しかしハラー自身は、これらの特性の本質を理論的に解明しようとしたのではなかった。神経と筋肉とが異なった仕方で働くことを実験によって見きわめた点にこそ彼の功績があった。実験によって筋肉と神経の働きを区別することは、ハラー以前にはなされたことがなかった。ここから彼は、「すべての有機組織は、組織を生理学的に特徴づける自律的で特殊な反応性を有しており、これが刺激反応性である。有機体はこの条件のもとでしか生命を表現できない」(10)と結論づけるにいたった。

ではなぜ感受性や刺激反応性という概念を整理し、その後数世紀に渡って生理学の巨人とも目されたハラーが、これらの特性の理論的本質を究明することに無関心であったのだろうか。その原因のひとつは、彼の筋肉収縮理論そのものにあったと考えられる。彼がグリッソンから継承した「刺激反応性」という概念は、ハラーにとっては神経繊維上での特性にすぎず、今日のように反射弓を形成し、受容器から求心的に脊髄に到達し、脊髄からまた直接、脳を経ずに遠心的に作動器に伝播するという一連の伝達運動として捉えられたものではなかったのである(11)。

 たしかに刺激反応性は、生体の運動を司る基本的な源泉ともいえる筋繊維の収縮を引き起こすという点で、「感受性」とは異なる。ハラーの考えでは、この刺激反応性によって生み出される力は、他のどのような肉体的な力とも異なるし、重力や引力、収縮力などにも還元されえない。この刺激反応性に伴う筋肉繊維の収縮の力を、ハラーは<固有力>(vis propria, incita)と呼び、この力は神経の興奮に対応するだけでなく、圧力や電気的刺激にも反応するのだと考えた。

だから彼は、ポリープのような無頭(無脳)で神経すら持たない生体でも、刺激に対して反応できるのだと考えた。こうしたハラーの試みは、筋繊維や神経系といった解剖・生理的研究における物理・化学法則の成果を踏まえつつも、なおそこに見え隠れする解明しきれていない未知の原理を把握するという、まさしくシェリング・サークル内での中心課題へとつながっていく。しかし、この「刺激」理論をめぐるドイツ・ロマン派医学内部論争に直接火をつけたのはハラーではなく、ジョン・ブラウンであった。

 エディンバラのジョン・ブラウンは、彼の師匠ウイリアム・カレン(William Cullen)の生気論に基づく神経病理説とは違う学説を提唱した。カレンの神経病理説では、神経の働きが正常であると身体は健康であるが、刺激によって神経の力が通常より強くなったり弱くなったりすると、痙攣や麻痺状態が起こるとした。ブラウンは基本的にこの立場を継承しつつも、刺激に応じて興奮することが生物の基本的特徴であると位置づけ、刺激を外から来るもの( 寒暖、食物、空気など)と、内におこるもの(血液、体液、精神作用) とに分け、刺激が強すぎると興奮性は減退するから、興奮しすぎているときは鎮静剤を用い、その逆の場合は興奮剤を与える。適度の興奮が保たれている時が健康で、それが減退したり過剰になったりする時が病気であるとする。彼は治療法として、主にアヘンとウイスキーを用い、彼自身そのために死んだと言われている。

 本国スコットランドではほとんど受け入れられなかったブラウンの興奮理論は、ドイツとイタリアで大反響をおこした。特にヴァイカルト(M.A.Weikard)によるブラウンのドイツ語版が一七九五年に出版されて以来、それはドイツ医学界を席巻した(12)。シェリング自身は、ヴァイカルトによるラテン語原文からのドイツ語訳(Gruendsaetze der Arzneilehre)ではなく、プファフによる英語版(一七八七)からのドイツ語訳(John Browns System der Heilkunde)を読んでいた。またそれだけでなく、プファフのもうひとつの著書『動物的電気性と被刺激性について』(一七九五年)からも重要な示唆を得ている。

4. プファフの生理学理論とシェリングによるブラウン批判

  プファフによるブラウン批判の要点は次の二点である。第一に、ブラウンの「興奮性」(Erregbarkeit)概念においては、生命力が作用する必然的な条件となるある原理が求められることになる。その原理は、有機体の生命力を維持するために使い尽くされてはならず、「再生と復旧(Erneuerung und Wiederherstellung)」がキーワードとなる。ところがブラウンはこの原理を何か他の力や、エネルギー貯蔵庫のようなものから生じると考えてしまっているという批判である。第二に、その原理を考察するに際しては、刺激(Reiz) という表現に還元できない「<新しい関係への>伝播・伝導」(einer Leitung "auf neue Verhaeltnisse")(PA,275.)を視野に入れなくてはならない、ということであった。

 つまりプファフによると、ブラウンの「興奮性」概念では、その根本原因を説明することができないし、しかもその興奮のためのエネルギーを刺激によって使い果たしてしまったとするなら、そのエネルギーの供給はどこからなされるのかが不明であるばかりでなく、結局はある種の神秘的な「隠された性質」(Qualitas Occultas)に逃げ場を求めざるをえなくなるというのである。プファフによれば、このために必要とされる力には、ある「源泉」が要求される。その源泉とはもはや刺激に還元されえない。しかし、プファフはこの時点ではまだこの源泉を自分では解明することができないでいた。

 他方、シェリングは、外部刺激を繊維や神経における運動の原理とみなして、そこから生命を説明することはできないと述べていた。生命の説明原理とは、刺激に還元することができない。というのも、「そこには、われわれが物質的なものでは説明することのできない、ある高次の原理があるからだ。ある原理、それはあらゆる個々の運動を秩序だて、統御し、さらにそれらを相互に関連づけ、諸性質の全体を産出し、また再産出するものである」(I,372.)からであった。

シェリングは、ブラウンが諸現象の量的差異にしか注目せず、しかも興奮性という概念を何の学問的説明も与えないまま放置したのだと批判している。シェリングは、ブラウンが「第一原理」(causa prima) へと向かおうと試みていたことの意義は認めるものの、しかし─プファフがすでに暴露していたように─彼が無思慮に使っていた「興奮性」という概念に認められる欠陥を鋭く批判していたのだった。ブラウンにおいて、「興奮性」概念は活力的でもあり作用原因でもあるような、なんらかの「エネルギー」のようなものだとして曖昧なままにされていた。それを明らかにするためには必要不可欠だとプファフがみなしていたものを、シェリングは『イデーン』の中で成し遂げようとしていたのだった。

 運動の根源的原理としての刺激を生命だと説明するわけにはいかないとするシェリングの言明を、「新しい諸関係」は刺激に還元することはできないとしていたプファフの見解と照らし合わせてみよう。すると、シェリングがプファフのなし得なかった課題をみずからの課題として引き受けていたことが明らかになるだろう。

 シェリングとプファフの理論的影響関係はこれにとどまらない。プファフは、ブラウンの体系に関するコメンタールの第三版を一八〇四年に出版し、それまでの二つの版とは異なった「ひとつの新しい批判的論究」という視点から書き起こしている。そこでは彼は、以前のように「新しい関係」への要求からではなく、シェリングの言う生命の根源としての原理(世界霊)との関わりを視野に入れて、次のように述べている。

 「シェリングは興奮性を演繹し、興奮性を合成された概念(eine zusammengesetzten Begriff) だとしている。したがってわれわれは、興奮性には二つのファクターがあることを見落としてはならない。すなわち、まず第一のファクターは、活動性のエネルギー(Energie der Thaetigkeit) であり、これは有機体を外的自然からの作用・影響に対立、対峙させるエネルギーで、作用能力のことである。第二のファクターは、外的自然の作用・影響に対する受容性、すなわち刺激に対する感応性である。この二つのファクターは互いに反比例の関係にあり、このことは、シェリングが興奮性を演繹したことによって十分に証明されている」(PC, S.18.)。

プファフは、このブラウンの体系に関するコメンタールの第三版を、「ブラウンの体系の根本原則の、とりわけ興奮理論に注目することによる改訂版」と名づけ、先行する二つの版の訂正をしなければならないと述べている。ブラウンの著作の三二節、および二三七節において展開されていることに関連して、プファフは「興奮性の再補填・再補充といういかがわしさ」(die Fragwuerdigkeit des Wiederersatzes der Erregbarkeit) を暴いている。

 「こうした興奮性の再興・復旧(diese Wiederherstellung der Erregbarkeit)という観点からでは、生命諸現象をまったく不十分にしか説明できないし、あらゆる諸症状を伴っている重病患者が、完璧に健康を回復することも説明できないだけではない。 まったくわけのわからない生命力を完全に否定しさるということも、生命に対する一面的なブラウン的観点からはまったく出てこない。

なるほど確かにブラウンは、刺激を取り込むことで興奮性を蓄え、そして興奮性は諸器官の(もちろん相対的にでしかないが)休息中に再び回復されるという一般法則を立ててはいるけれども、この法則はさらなる証明を必要としている。その証明とは、そのような積極的な働きが存在するためには、十分な根拠がなければならないだけでなく、そういう働きの積極的な原因がはっきりと、しかも最高度に保たれているという条件が不可欠だということなのである」(PC,55f)。

 プファフは、自分では成しえなかったこの「積極的な原因」の解明が、シェリングによってなされたとみなしており、特にシェリングの『世界霊』(一七九八年)における次の表現に注目している。

「生命的存在においては、諸機能の段階系列が生じているということは否定しようのない事実なのだから、自然は動物的プロセスに対して刺激反応性を、刺激反応性に感受性を対置しているのである。それゆえ、そこには諸力の拮抗作用(eine Antagonismus der Kraefte)が発生している。この拮抗作用においては、相互に均衡的バランスが保たれており、それゆえ、一方が上昇すると他方が下降し、またその反対にもなり、こうしたことから次のような考えが導き出される。すなわち、あらゆる諸機能は、あるひとつの同一の力が分岐したもの(alle diese Funktionen nur Zweige einer und derselben Kraft seien)であって、そこから個々の諸現象が出現してくる生命の根源として把握せねばならないような、何かただ一つの自然原理があるのだという思想である。それはちょうど、疑いなく、光や電気などの中にはただ一つの一般化しうる原理があるのと同じように、である。偉大な自然探究者たちは、それぞれに異なった様々な道程を辿るけれども、同じ結果にたどり着くように、この理念は求められている。とりわけこの理念は、有機的諸組織の系列の中で、有機的諸力のさらなる発展的展開を考察することで確証を得る。この点に関して、私は読者にすでに一七九三年に行われたキールマイヤー教授による講演を挙げておきたい。この講演によって、疑いなく、新しい自然史全体のエポックに新時代が加えられることは間違いないだろう」(II,618f)。

 シェリングは、プファフによるブラウンの興奮性理論に対する批判から理論的刺激を受け、『イデーン』の中で運動の調整を行うものとして興奮性概念を位置づけなおした。そして、さらに『世界霊』の中では興奮性概念を「生命の原理」として展開し、それを存在そのものの根拠としてではなく、存在の一定の形態の根拠として考察したのだった。シェリングが成し遂げようとした仕事というのは、いわば生理学者プファフが要求していたものに対する回答であった。
 

5. 「対極性」という概念

 シェリングは、有機体の自己維持運動を「均衡(Gleichgewicht)」の不断の破壊と再興の論理として把握する。『世界霊』では、「生命過程そのものは、生命の否定的な諸原理の均衡の不断の破壊と再興の内にのみある」(II,589)と述べ、また一七九九年の『第一草案』でも「有機体は自分自身と均衡していなければならない。・・・しかし、この均衡においては、あらゆる有機的活動性は消滅してしまうだろう。・・・あの均衡(無差別の状態)は、それゆえに不断に破壊され、再興されなくてはならないのだ」(III,161)とある。

シェリングの考えでは、生命現象を説明するために生気論的なある種の神秘的エネルギーのようなものを想定する必要はなく、牽引と反発のような二重性の奏でる「対極性」が織りなした「合成力を探究しなくてはならない」(III,84)。したがって生命とは、拮抗する二つの力が織りなす「反対定立的活動性」に他ならないのだった。この見地は、東洋医学の陰陽二気説にその理論的根拠を求めていた同じシェリング・サークル内のキーザー(Dietrich Georg Kieser)に認められる「対極性」概念にも通底している。

この事実はきわめて興味深い点ではあるが、ドイツ自然哲学的医学の疾病概念における対極的均衡説と、漢方や鍼灸をはじめとする東洋医学における陰陽五行説に基づいた疾病概念との比較検討という大きな課題は、稿を改めて取り上げることとしたい。

 さて、シェリングの有機体思想においてとりわけ注目すべき第一の点は、シェリングが捉えている有機体の自己還帰運動における「二つの拮抗する力」というキー・コンセプトである。

 「この二つの拮抗する力が統一と同時に衝突においても表象されるならば、有機化する原理、世界をシステムにまで形成する原理の理念に通じる。このような原理をおそらく古代人は、世界霊によって示唆しようとした」(I,449)。

 ここで述べられている「二つの拮抗する力」とは、どこか有機体の外部に想定されるような「根源力」ではなく、「対極性」(Polarit舩)という概念において把握されなくてはならない。二つの対立し、拮抗する力が作用する領域において「普遍的な二元論」(I,544) が働いているとシェリングは考える。

 「この原理〔対極性という拮抗する力の原理ィ筆者〕が、非有機的な世界と有機的な世界の連続性を維持し、全自然を普遍的な有機体にまで結びつける。それゆえ、われわれは新たな普遍的有機体のうちに、自然の共通の魂として最古の哲学が予感しながら、喜んで受け入れた存在、あの時代の二、三人の自然哲学者たちが形成的で形象的なエーテルという言葉でもって、一者とみなしたあの存在を認識するのである」(II,637)。

 シェリング有機体論の特徴として注目すべき第二の点は、有機体が常に外的環境との媒介運動において把握されているということである。『第一草案』では次のように述べられている。「有機体は自分自身を構成する。しかし、有機体は自分自身を外的世界に対する圧迫においてのみ構成するのだ」(III,145)。有機体とは、外的環境から受けるさまざまな刺激にさらされながらも、自身をそれに反応・適応させながら「主体的に」自己を維持している動的存在であることが強調されている。

 注目すべき第三の点は、「感受性」と「刺激反応性」が「有機的二重性」という概念のもとに把握されていることである。そしてこの「有機的二重性」は、@、「主体としての有機体」=活動性と、A、「客体としての有機体」=活動の阻害(Hemmen)との対立として現れる。生命の活動性とは、どこかに「前提されるもの」ではなく、この二つの対立・拮抗する「対極性」によって成り立っている「均衡」が不断に破壊され、また再興されるという運動そのものなのである。そして、この「均衡」を破壊するものが、外部世界からの「刺激」に他ならない。

 しかし、外部世界からの「刺激」とは、ブラウンが考えたような有機的生命にとっての運動の「原因」などではない、とシェリングは考える。「外的刺激とは、この二重性を破壊すると同時に、再興するという機能を有する」(II,170)。「感受性こそが最初に目覚め、次いで刺激反応性に、そして最終的に形成衝動へと移行する」(II,192)。

 感受性によって外的刺激がまず最初に受容されると同時に、これが有機体の内的活動性へと転換され、こうして刺激反応性が感受性と相互に作用しあうことになる。このような「二重性」として 「興奮性」(Erregbarkeit)を把握すること、この点がブラウンには欠けているのだとシェリングは批判している。「ブラウンが興奮させるポテンツ(erregende Potenzen)として理解しているものが何であるのかを調べれば、われわれの見地から見ると、彼がすでに生命の否定的な諸制約に属する諸原理を理解していたことが判明する」(II,573)。このブラウンに対するシェリングの批判的視座は、すでに述べたように、プファフから学んだものであった。

 繰り返しになるが、シェリングの考えでは有機体における生命諸現象を考察する場合、「生命力」のような生気論的なある種の神秘的エネルギーのようなものを想定する必要はない。そうではなく、われわれは牽引と反発といった二重性の奏でる「対極性」が織りなした「合成力を探究しなくてはならない」(III,84) 。したがってシェリングにとって生命とは、拮抗する二つの力が織りなす「反対定立的活動性(Entgegengesetzte Aktivitaet)」に他ならない。

6. 「疾病のメタモルフォーゼ」とゲーテの医学観

 通俗的な生気論的把握とは異なった生体の有機的活動性に対するシェリングのアプローチは、これまで述べてきたように「対極性」という概念に支えられていた。しかし、この「対極性」は、ゲーテにおいてもまた、きわめて重要な概念である。この概念をめぐるシェリングとゲーテとの理論的交流はあったのだろうか。そしてまた、両者の医学観の関係はどのようなものであったのか。

 ゲーテは、『イデーン』(一七九七年)と『世界霊』(一七九八年)を熱心に読んでいた。特に『世界霊』は、すでに校正刷りの段階で読んでいたことが知られているし、ゲーテ自身が引いた下線や書き込みのある『イデーン』は、ゲーテ文庫にも所蔵されている。二人がはじめて出会ったのは、一七九八年五月末のイエナであり、両者の交流が盛んになったのは一八〇〇年から翌年にかけてであった。この頃に、ゲーテはシェリングから直接、自然哲学を学ぼうとし、他方シェリングは生理学や比較解剖学の文献をゲーテから借りたりもしていた。

ゲーテはたしかにシェリングの自然哲学に強い共感を覚えていた。しかし同時にまたゲーテは、シェリングの哲学的思索に具体性と経験の不足を感じてもいた。シェリングの「知的直観」には、行き過ぎた「思弁」があるという。一八〇二年二月十九日付けのシラーに宛てた書簡のなかで、ゲーテは次のように語っている。

「シェリングとはとてもいい一夜を過ごせました。偉大な深遠さと明晰さを見ることは、たいへん喜ばしいことです。・・・けれども哲学は、私にとっては詩を破壊するものです。というのも、詩が私を客観へと駆り立てるからでしょう。私は決して純粋に思弁的に振舞うことができないので、どの命題に対しても直観を求めずにはいられません。それで、ただちに自然のなかへと逃げ込みもするのです」(WA IV 16,43)。

ゲーテにとってシェリングの「知的直観」は、自然の豊かさをありのままに「直観」するものではなく、現象の豊かさを捨象し、経験を「思弁」の中に押し込め、理念を優先させてしまうものであった。

しかし、シェリングもいたずらに誇張された「思弁」ではなく、経験に裏打ちされた概念的把握として<思弁性>を捉えていたことには注目する必要がある。

「私たちは経験を通じ、経験を媒介にしてあれこれを知るだけでなく、そもそも根源的に経験を通じ経験を媒介にして以外は何も知ることはできない。そして、その限りで私たちの知全体は経験命題から成り立っている」(III.278) 。

したがってシェリングにとって自然哲学のいっさいの根本諸概念は、それらが哲学的に整合的でなければならないだけでなく、「経験的実験」に基づくものでもなければならない。だがしかし、たしかに経験は自然哲学にとっても欠くことのできない基準点ではあるが、そこに留まるわけにはいかない。なぜならいっさいの科学的認識にとって重要なのは、「あらゆる自然現象の内的必然性を洞察すること」(III,279) だからである。理論は経験からだけでは演繹できない。

では理論は、どこから私たちに到来するのか。シェリングが強調しているのは、自然哲学は確かに自然科学的探究に依拠しなければならないが、自然哲学にとって大切なのは、数量化可能な経験(Empirie)だけであってはならないということである。近代実験医学は、生命諸現象が属する一定の対象領域を客観の連関として探究する。しかし、科学的データに数値として表されている経験だけをいくら加算してみても、そこから自己産出的な現実の有機的な生命概念に到達することはできない。

こうして見ると、ゲーテの言う「精神の眼をもって対象をみること」や「感覚的な直観」という概念において重視されていた<経験>も、シェリングが知的直観において重視していた<経験>(Erfahrung)も、数量化可能な実験的「経験」(Empirie)とは明らかに異なった内実をもっている。シラーがゲーテに対して提唱していた「理性的な経験」とは、まさにシェリングの求めていた<経験>概念と重なり合うのではないか。

 しかも、生体の有機的活動性に対する二人の視座には、深いところであい通ずるものがある。特に「対極性」という概念に基づいて、罹病と治癒との相互転換プロセスを「疾病のメタモルフォーゼ」として理解する観点には、単なる類似性以上の思想的共鳴を認めずにはいられない。 ナーガー(Frank Nager)(13)によると、ゲーテは、罹病と治癒というプロセスを自己の「収縮と拡張」の作用として把握した。彼は、現代医学が忘れがちな「自然のなかの人間、生命」という普遍的理念を、ゲーテ医学の「根本理念」として確認する。病気を生理学的にのみ把握し分析するのではなく、人間ひとりひとりの内面性と密接に関連するものとして捉えようとする姿勢、それこそがゲーテ医学と呼びうるものの内実をなす。ナーガーは、精神的肉体的打撃からの芸術的創造による回復というプロセスを、ゲーテ自然科学のひとつの概念、「収縮と拡張」による有機体のメタモルフォーゼにたとえてもいる。この理念に従えば、肉体的精神的苦痛は収縮期にあたり、脱皮、生成、そして拡大のための準備期間となる。

病気を「根絶すべき敵対者」としてではなく、自己のライフ・サイクルにおける転換期として位置付ける<気づきとしての病>という視座は、まさに鍼灸や漢方医学における視点であることもわれわれの知的関心を刺激する。疾病という生体現象を「収縮と拡張による有機体のメタモルフォーゼ」と捉えたゲーテを彷彿とさせるように、シェリングは「疾病のメタモルフォーゼ」という言葉とまさにゲーテの術語である「原型」という概念を用いながら、『学問論』(一八〇三年)「第十三講義 医学ならびに有機的自然論一般の研究について」のなかで次のように述べている。

 「疾病のメタモルフォーゼを規定する法則はまた、自然が様々な類を生じさせる際に営む普遍的にして永続的な変化をも規定する。というのは、第一に、こういう変化も絶えず変化する関係をともなう同一の根本原型(ein und desselben Grundtypus)の不断の繰り返しにのみ基づいているからである。また第二に、医学が疾病、すなわちこのような観念的な有機体の種差を、真の自然史が実在的な有機体の種差を構成するのと同等の明確さをもって構成する時、その場合には両方の種類の有機体は必然的に対応するものとして現れなくてはならないからである。その時はじめて医学が普遍的有機的自然論に完全に融合するであろうことは明白である」(PhB, S.135-136)。

ゲーテにとってもシェリングにとっても、病とは不断のメタモルフォーゼの諸段階として定式化されている。両者の経験に対する姿勢の表面的な相違を越えて、二人の医学思想は、病気を否定的に把握するのではなく、常に創造的生産的に解釈するところで深く通じ合っている。

おわりに

 われわれの時代の医療は、ゲーテ時代の医学をどう捉えたらよいのだろうか。この問いに答えることは容易なことではないにしても、少なくともわれわれはシェリングをはじめとするこの時代に開花したドイツ・ロマン派医学に対して、「生気論」というレッテルを貼ったり、「非科学的でまさに『ロマン的』な夢物語に溺れた医学思想」というように揶揄したりすることで満足してはならないと言えるだろう。とりわけ今日では、現代医学においても人体の自然治癒力に対する関心が中心的課題になりつつある。自然哲学的医学は、「疾病のメタモルフォーゼ」という観点から、病気を根絶すべき敵対者としてではなく、有機体としての人体内における対極的均衡のバランスの乱れとして把握しようとする。この視点は、人体内の「治癒」のメカニズムを通俗的な生気論とは異なった仕方で解明するための大きな示唆を含んでいるといいうる(14)。

 ロマン派医学の遺産は、いまだ十分に研究し尽くされたと言うことは到底できない。「失われた医学史の遺跡」の発掘作業は、まだ始まったばかりである。


略号

PA: C.H.Pfaff, Ueber thierische Elektricitaet und Reizbarkeit, Leipzig, 1795. PB: C.H.Pfaff, John Browns System der Heilkunde, Kopenhagen, 1796. PC: C.H.Pfaff, John Browns System der Heilkunde, Dritte, von neuen durchges. Ausg. Kopenhagen, 1804.

*シェリングからの引用はすべてシュレーター版全集によるもので、巻数をローマ数字で、ページ数をアラビア数字でそれぞれ記入してある。

 (1)例えば日本の厚生省にあたるアメリカのNIHは、一九九二年にOAC(Office of Alternative & Complementary Medicine:代替・相補医療調査室)を設置し、近代西洋医学以外の伝統医療の有効性を解明するための本格的研究を開始している。その後この調査室は独立した国立センターとなり、鍼灸をはじめとする東洋医学はもちろん、インド医学、チベット医学、ハーブ、アロマテラピー、さらには催眠療法、音楽療法なども研究対象としている。また、わが国でも一九九八年十二月に「日本代替・相補・伝統医療連合会議」(JACT)が結成された。この出来事は、東西医学を融合した「新しい医学思想」の幕開けを実感させてくれる。詳細はホーム・ページ(http://www.health-station.com/jact/) を参照のこと。

 (2)たとえばロートシュー(Karl E.Rothschuh)氏は、ロマン派医学を四つの潮流に分類して、第一をフーフェラント(C.W.Hufeland)を代表とする「経験的・合理的潮流」、第二をシェリングを代表とする「自然哲学的潮流」、第三をロイポルト(J.M.Leupoldt)を代表とする「人間学的潮流」、そして第四をレシュラウプを代表とする「理論・実践的潮流」としている。しかしロートシュー氏自身も認めているように、この分類では、第四に分類されているレシュラウプと第二の自然哲学的潮流との関係が捉えにくくなるという問題がある。Karl E.Rothschuh,Deutsche Medizin im Zeitalter der Romantik.Vielheit statt Einheit,In:Ludwig Hasler(Hrsg.),SCHELLING: seine Bedeutung fuer Philosophie d.Natur u.d.Geschichte;Referate u.Kolloquien d.Internat.Schelling-Tagung Zuerich 1979,Friedrich Frommann Verlag,1981.参照。ロマン派医学を一八〇〇年から一八五〇年までと定義している典型的な著書は、Richard H.Shryock, The Development of Modern Medicine, Alfred A.Knopf Inc., 1947.また、小原正明「ドイツ・ロマン主義医学序説」『モルフォロギア』第一八号、ナカニシヤ出版、一九九六年参照。小原氏によるドイツ・ロマン派医学の紹介は、きわめて簡明でありながら情報量に富んでいる。

 (3)注(2)に挙げた文献のロマン派医学の章を参照のこと。邦訳文献では、シンガー/アンダーウッド(酒井シヅ訳)『医学の歴史 古代から産業革命まで』朝倉書店、一九八五年、およびC・U・M・スミス(八杉龍一訳)『生命観の歴史(下)』岩波書店、一九八一年。また川喜田愛郎『近代医学の史的基盤(下)』岩波書店、一九七七年も参照。

 (4)Werner E.Gerabeck, F.W.J.Schelling und die Medizin der Romantik, Peter-Lang, 1995.筆者によるその書評(『シェリング年報97』第五号、晃洋書房、一一九頁〜一二一頁)を参照のこと。

 (5)Richard Toellner, Randbedingungen zu Schellings Konzeption der Medizin als Wissenschaft, In:Ludwig Hasler(Hrsg.),SCHELLING: seine Bedeutung fuer e.Philosophie d.Natur u.d.Geschichte;Referate u.Kolloquien d.Internat.Schelling-Tagung Zuerich 1979,Friedrich Frommann Verlag,1981, S.117.

 (6)キールマイヤーについては、拙稿「有機体における三つの機能特性をめぐって ―ヘーゲルによる「シェリング・キールマイヤー説」批判の意義」『シェリング年報98』第六号、晃洋書房、八五頁〜九五頁を参照。

 (7)Johannes Mueller, Zur vergleichenden Physiologie des Gesichtssinnes des Menschen und Tiere 1826, S.29.

 (8)プファフに関する文献は、ミュンヘンにあるバイエルン州立図書館に豊富に蔵されている。

 (9)Claude Bernard, Le輟ns sur les ph駭om鈩es de la vie communs aux animaux et aux v馮騁aux, 1878-79.(邦訳『動植物に共通する生命現象』「第七講 動植物両界における原形質の特性 被刺激性 感覚性」『科学の名著』第II期九、朝日出版社、一九八九年、一五五頁〜一五七頁。

 (10)Albrecht von Hallers Abhandlung ・er die Wirkung des Opiums auf den menschlichen Koerper, ・ersetzt und erlaeutert von E.Hintzsche und J.H.Wolf, Verlag Paul Haupt Bern 1962. S.27.

 (11) この点については George Canguilhem, La formation du concept de r馭lexe, Librarie Philosophique, 1977.(邦訳『反射概念の形成 デカルト的生理学の淵源』法政大出版局、一九八八年、一一四頁〜一一九頁)を参照のこと。カンギレムはこの中で、神経繊維および筋肉繊維に固有のもの(固有力)があるとみなしたハラーにとって、「脊髄反射」という発想は思いつかれえなかったとしても、それは当然のことであったと述べている。しかし、ハラーにおいては次の点が注目されえよう。すなわち、ハラーの考察では、脊髄を経る反射弓という経路で感受性(神経繊維)と刺激反応性(筋繊維)が連係していたのではないしても、痛刺激の伝達が脳へとつながらずとも刺激に対する反応が可能だと考えられていた点である。当時の他の多くの生理学者が、痛刺激をはじめとする感覚印象の末梢部への反射を、大脳への伝達においてのみ可能だと考えていた「脳中心主義的反射」概念に拘泥していた一方で、ハラーは脱脳中心的な局在的システムの方向性を持っていたと評価することもできるだろう。この点はシェリングやヘーゲルにおける感受性や刺激反応性の把握の仕方にも言えることではないだろうか。この問題については他日に期したい。

(12)この点については以下のものを参照。長島隆「ブラウン説とシェリング、ヘーゲル」『日本医科大学基礎科学紀要』第十号、一九八九年。同氏「シェリング「生命」論と医学 ─ハラーとレシュラウプ」『医学哲学医学倫理』第八号、一九九〇年。長島氏の研究は、上記の概念に対して当時の医学史A生理学史を踏まえてきわめて精緻にアプローチしている点で、わが国でも突出した優れた内容を蔵している。

(13)Frank Nager,Der heilkundige Dichter;Goethe und die Medizin, Zuerich u.Muenchen,1990.また、渡辺直樹氏によるその書評「病跡学からみたゲーテ」『モルフォロギア』第十四号、ナカニシヤ出版、一九九二年を是非参照のこと。

 (14)ドイツにはいわゆるメディカル・ドクター(Arzt)の他に、ハイルプラクティカー(Heilpraktiker:健康療法士)と呼ばれる治療家が多く存在する。彼らは日本での鍼灸師やカイロプラクターと同様、公的な資格試験に合格して免許を取得し、独立開業権をもっている。また、ミュンヘンには鍼灸に関する学会事務局がある。彼らにとっても「自然治癒力」が最も中心的な関心であり、現にロマン派医学にも関連の深いハーネマンによって創始された「ホメオパティー」は、町中のどの薬局にもその専門コーナーが設けられているほど現代ドイツの日常生活に浸透している。ホメオパティーについては、服部伸『ドイツ「素人医師」団 ―人に優しい西洋民間療法』講談社選書メチエ、一九九七年に詳しい。


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